13
銀八と桂の妙な諍いを見たあの日から、一週間が過ぎた。
情けないことに、土方は何も行動を起こせずにいた。
桂が銀八に虐待を受けていることは明らかで、一週間前の体育で見たあの痕は、煙草の火の痕と見て間違いない。
いくら気に入らないとは言っても、無抵抗の相手を一方的にそのような目に遭わせるなど、犯罪以外の何物でもない。
しかも、ここは教育の場だ。
けしてあってはならない行為が、目の前で繰り広げられている。加害者である銀八を野放しにしてはおけない。
だが、頑として被害者側の桂は何の告白もしない。
あの後にでも、何か桂からアクションを起こしてくるかと思ったがそれもない。
寧ろ徹底的に土方を避けているようだった。
それに、間の悪いことに神楽が席替えをしたいと駄々を捏ね、土方は桂とかなり遠い位置の席となってしまった。
自分のくじ運のなさを彼は呪った。
銀八も銀八で、何事もなかったかのようにこの一週間振る舞っている。
だらだらと授業を進め、ホームルームを仕切り、たまに生徒とじゃれ合う。
土方にも薄気味悪いほどにいつも通りの接し方だ。
矢張り、桂から助けを求めてこられないと、動けない。せめてその素振りだけでも。
誰かに相談しようとも思ったが、それは浅はかだと土方は考えていた。
教員は信用に欠けるし、沖田や近藤に言ったところで真に受けてもらえないだろう。
それに、噂になりでもすれば一番被害を被るのは誰でもない桂である。
銀八と桂二人の言動などは探偵ばりに監視していたつもりだったが、流石に接触はないようだ。
第三者に現場を押さえられるといった状況から考えると、当然だった。
このまま土方が目を光らせていれば、桂は暴力に怯えることもなく平穏に過ごせるだろうか?それは否だろう。
何と言っても学内でしか土方は関与できない。放課後、或いは週末などに桂が酷い目に遭わされない保証など何処にもないのだ。
寧ろ、自分の所為で虐待は更にエスカレートしているかもしれない。
だがだからといって忘れて仕舞うことも、土方にはできなかった。
「土方さん、次体育ですぜィ。着替えないんですかィ」
沖田の声で、土方はやっとこの一週間何度も考えてきた思考から一瞬解放された。
おお、と生返事をして、土方はスポーツバッグから体育着を取り出した。
女子には更衣室なるものが用意されているが、男子は教室で更衣することとなっており、周囲には上半身裸の者や、
トランクス一丁の者がうようよいた。
必然的に、土方は一週間前の事件を思い出す。全ての始まりとなった体育の時間。
何気なく、桂の姿を探した。しかし目立つ筈の桂の長髪は何処にも見あたらない。
「土方」
呼び声に後ろを振り向くと、其処にはたった今自分が探していた張本人である桂が、プリントを持って立っていた。
驚くことに、夏用の体操服で。
そしてその透き通るように白い首筋には、何の痕もなかった。
「これ、文化祭で何の出し物するか、アンケート取ってるから」
事務的に用件だけを告げると、桂は他の生徒にも同じようにアンケートを依頼しに行った。
土方は動揺した。
あの痛々しい痕は、間違いなく煙草の火によるものだと確信していたのに。
まさかその痕が一週間やそこらで消える筈もない。下手をすれば一生消えないような代物であろう。
それが、跡形もなく消えるなんて、常識的に考えてあり得ない。
(…何なんだよ、畜生…)
自分の勘違いだとは思わない。
銀八は明らかに桂に、一教師として、いや一人の人間として絶対に行ってはいけない行為をしている。自ら現場を押さえてしまったのだから。
では、あの痕は何だったというのだ?説明がつかない。
それとも、銀八とは本当に関係がないのか?わからない。土方は、柄にもなく誰かに八つ当たりをしたい気分になった。
その後の体育は、上の空で何をしたか全く覚えていない。
機械的に身体を動かし、たまに見える違う班の桂に気を取られたりしていたのだろう、と土方は思った。
教室に入って更衣を済ませ、沖田が何かちょっかいをかけてくるのさえ適当にやり過ごしていると、
土方を一層苛立たせる女子達の黄色い声が廊下の向こうから聞こえてきた。何かの話題で異様に盛り上がっている。
彼女らはきゃあきゃあと話をしながら、教室に入ってきた。
「いいじゃんいいじゃん、もっかい見せてよそれー!」
「やぁだぁ、恥ずかしいぃ」
女子達数人が、このクラスで一番の巨体を誇るハム子(神楽と銀八が面白がってつけた渾名だが)を取り囲み何やら騒いでいる。
災難なことに、ハム子と土方の席は隣同士で、席に着いていた土方のすぐ近くに取り巻きは腰を落ち着かせた。
「なんでぇ、何かいいもん持ってやがんのかィ、ハム子のくせに」
「誰がハム子だゴルァァ!」
土方の気も知らず、沖田は当然面白そうな話題に食いつく。
女子達は冗談めかして、その話題の中心について沖田に話そうとした。
「ねぇねぇ見てよ、この子の首―」
「ちょっと!やめてよ〜恥ずかしいじゃ〜ん!」
ハム子はそう言いながらもどこか嬉しそうだった。彼女の態度からは優越に近いものさえ感ぜられる。
あるのかないのか分からない首元を隠そうとするのも、パフォーマンスでしかないようだ。
土方は心底呆れながらも、何気なく盛り上がる場に視線を泳がせた。
「______」
ハム子が無理に引っ張った襟から見え隠れしている首にひとつ、見覚えのある痣のような痕が、確かに在った。
「ちょ…っ!?」
突然椅子から立ち上がり、ハム子の腕を剥ぎ取ってその浅黒い首元を露わにした土方に、
ハム子は勿論取り巻きの女子や沖田でさえも驚きを隠せなかった。
「お前…これ、どうした」
「…え?まさかヤキモチ妬いてんの、ひじか」
「真面目に答えろ!!」
凡そその場に相応しくない、荒々しい剣幕で怒鳴った土方に、ハム子はびくりと一度太い肩を反らせ、
「キ…キスマークよ。太助がふざけて点けてきたの」
と、恐々答えた。
今や取り巻きどころか、土方の怒号に教室全体が水を打ったように静まりかえっている。
そんなことは意にも介さず、土方は乱暴にハム子の襟から手を放し、そのまま廊下へと出て行った。
えもいわれぬ視線が背中を刺したが、今の土方にはどうでもいいことだった。
やっと、糸が繋がった。あの痕の正体がようやく分かった。
そしてその痕の意味する、暴力より更におぞましい答え。精錬な土方の予想の範疇を遙かに超えた答え。
想像するだけで戦慄が走った。
あてどなくずんずんと前進する土方の目の前に、申し合わせたように桂が姿を現した。
土方を認めると、ふいと視線を逸らす。
謎が解けた興奮が、土方を大胆にした。
そして今度こそ真実を突ける慶びにも似た感情。
土方は、人目も憚らずに桂の方へ真っ直ぐ歩み寄り、一週間前逃げる桂の腕を掴んだときよりももっと強い力で、彼の腕を引いた。
「い…ッ!何をする貴様!」
「黙って来い!」
混乱する桂と、物珍しげに投げられる生徒たちの視線をかいくぐり、土方は近くの男子便所に桂を引っ張り込んだ。
其処は以前から土方が一服するために使用している校内一汚い便所だった。
「…っ何なんだ貴様!!無礼にもほどがある…」
「手前が俺を避けてっからだ。おい、桂」
土方は桂の腕を掴んだままで、最早脅迫に近い格好で桂に迫った。
その剣呑ぶりにさすがの桂も気圧されているようで、いつもより威勢がない。
「お前が銀八に何されてるかわかったんだよ」
「……この前からそればかりだな。何もされとらんと何度言えば、」
「すっとぼけんじゃねぇぞ、あの痕だってキスマークだったんだろ。銀八に点けられてんだろうが」
土方が声を荒げると、桂は無理に嘲笑を作った。
は、と一度笑ったがそれすら震えているのが容易に分かる。あくまでもしらを切るつもりだろう。
何だか桂を尋問しているようだとも思ったが、また桂に避け続けられては話にならない。
「何だそれは、どういう道理だ。笑い話にもならんな、そういう下らん話ならもういいだろう」
「いい加減にしろよ。何でそこまで隠すんだよ、被害者はお前だろ!?」
「もうやめろ!!貴様の戯れ言にはうんざりだ、その汚らしい腕を放せ猿が!!」
桂が怒鳴ったのをきっかけに、土方は実力行使に出た。
恐らく、桂に言わせればこういった浅はかな行動が「猿」そのものなのだろう。
しかし腕力では桂に数段勝る土方は、桂の男にしては細い体躯を薄汚れたタイルの壁に押さえつけ、
そして、見よう見まねで桂の目映いばかりに真っ白なうなじに、噛みつくようにきつく吸い付いた。
「っひ…!?」
桂の喉が引き攣る。
じたばたと手足を動かして必死に抵抗する桂を、土方はそれを上回る力で壁に押さえつけ、そして唇を離した。
「…こういうこったろ」
土方が吸い付いた箇所には、案の定一週間前に見た其れと全く同じ痕が付いていた。
「き…きさま…ッ…!!」
桂が恐怖とも取れる表情を浮かべ、かっと目を見開いたそのとき、盛大な音を立てて薄い扉が開いた。
「どういうことですかィこりゃあ。うちのクラスにホモカップルがいたとはねぇ」
「ちょ…土方くぅん!!おじさんそんなこと知らなかったよっ、言ってくれればよかったのに!!」
「校内の男子トイレでなんて…何てそそられる状況なの!同じMとしてうらやましいわ桂くん…私も先生にトイレで調教されたい!!」
あろうことかZ組のクラスメイト一同が、こぞって狭いトイレに押し寄せる。
言わずもがな、一から十まで行為を見られていたようだ。
6限を告げる授業のチャイムよりも騒然と、彼らは土方と桂に野次を飛ばす。
「違っ…違う!!今のは…!!」
桂の精一杯の抗議も、滅多に起こりえないこの事態に興奮した彼らの耳には届かない。
しかも、お祭り騒ぎを聞きつけた他の生徒たちも駆けつけてくる始末。
教員たちの叱咤さえ只の騒音としてしか意味を成しえなかった。
「何やってんのお前ら!!お前らが騒ぐとまーた俺がババ…じゃねぇ校長先生さまにしぼられんだろうが!!早く教室戻れ!!」
銀八が、どたばたと走りながら此方へ来て怒号を鳴らした。
収拾がつかないこの騒ぎぶりに業を煮やし、誰か他の教員が銀八を呼んだのだろう。
「銀八センセー、授業どころじゃないんでさァ。うちのクラスからカップルが誕生したもんで、みんなで祝ってやってるんでィ」
「俺たち風紀委員は同性愛者差別を撤廃する!人類愛、すばらしいじゃぁねぇか、なぁトシ!俺はお前を誇りに思うよ!だーっはっは」
「あらやだ、でも私は人間と動物の、特にゴリラとの恋愛には断固として反対だわ」
咄嗟に土方は横目で桂を窺った。
案の定、今までにないほどの青い顔をしている。
そしてその目線の先には、事の顛末を聞かされ大袈裟なリアクションをしている銀八が居た。
「マージかよ土方く〜ん。俺があんなにラブラブ攻撃仕掛けても何の反応もなかったのにさぁ〜あれ失恋?これって失恋?」
「先生っ、土方君には桂君がお似合いだわ!私なら先生の従順な雌豚としてっ」
「あーごめーん俺積極的なドMは苦手なんだよねー」
銀八が現場に来たことで、Z組一同の悪ノリはどんどんエスカレートしていく。
桂は泣き出しそうな顔で、ひたすらに違う、違うと喚き続けている。
当事者である土方は棒立ちで、その場を傍観していた。否、銀八の出方を待っていた。
「違う…ほんとに誤解だ!土方、お前からも何か言え!!…っ何で黙ってる!!」
桂の魂を切り裂いて出したような嘆きを耳に受けながら土方は、ただじっと銀八を睨め付けた。
周りにクラスのほぼ全員が居るこの状況では未だ、何も出来ない筈だ。
銀八は土方の視線に気付きながらも、ようやく事態の収拾に取りかかろうと重い腰を上げた。
「はいはーい、もう十分騒いだでしょーお前たち。
ご両人のことはそっとしといてやろうよ、本人たちは死ぬほど恥ずかしいんだぜこーいうの。
ほら、ヅラくんなんて泣きそうじゃん」
名前を呼ばれた衝撃にぴくりと肩を震わせ、桂はいよいよ耐えきれないといった風にひしめき合う生徒たちの隙間をかいくぐって
逃げるように行ってしまった。
土方は相変わらず銀八を鋭い眼光で以て睨み続けた。
一瞬振り返った銀八は、土方に意味ありげに微笑んで見せたが、その意図は計り知れなかった。
まだ続くか…orz
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