梅雨明け間もない蒸し暑い午後に、桂を訪ねた。
「珍しいな」
桂は暑苦しい長髪を結いもしていなかった。俺のめったにない来訪に驚きながらも、桂は二人分の冷たい麦茶を出した。
俺はまあたまにはね、と返し、白ペンギンの姿がないことに何となくほっとした。
肌に纏わりついてくるような湿気と、灼熱の太陽にさらされながら、縁側に座って青い空を眺め、何を話そうかと考えた。気の早い蝉がもう鳴いていた。
黙っている俺に何を聞こうともせず、桂は涼しい顔で庭先を眺めていた。
その横顔を見ながら、首にじんわり滲む汗を感じ、こいつが隣に座っているのはどうしてこんなにも当たり前のことなんだろうと思った。
きっと今日でこの顔も見納めだっていうのに、俺には何の感慨も浮かばなかった。この先も俺は何度もこうしてこいつの隣に座るだろう、という気持ちにしかならなかった。
しかし気持ちとは裏腹に、そうはいかない現実が確かにある。それも頭ではわかっていた。
どうしたって俺は過去にケリをつけなければならなかった。それはあの日から既に決定されていたことで、俺の感情なんて関係ないことだった。
これを贖罪だなんて思ってもいないけれど、手前のケツくらい手前で拭けないようじゃ、ただでさえ廃っている侍の名が廃るのだ。
それでも、桂を目の前にすると、折角の高貴な決意が簡単に揺らいだ。
あの日あの場所にいて、今も俺と同じ場所にいる桂の存在は、唯一縋れる柱のように思えた。
何もかも洗いざらいぶちまけて、此奴の言葉じゃないが、もう一度共に剣を取ろうと言って、この先の運命に一緒に食い千切られてしまいたい。
だけど、俺はかつて同じ願いをした桂を拒み、しかも桂はその拒絶さえも受容した。そんな男に、どうして愚かにも一緒に来てくれなんて頼めるだろう。
自分は桂と一緒に行かなかったくせに。
でも、きっと俺よりも愚かな桂は、そんな願いをも受け入れるだろう。己の護るべきものを捨ててでも、共に来てくれるだろう。
それがわかっているから、俺は何も言わずに消えるのだ。
「…お前、昔のことどれだけ覚えてる?」
両手は後ろの床につけたまま、足をぶらぶらとさせて俺は桂に横目でちらりと視線を送った。桂は不思議そうな顔で俺を見ていた。
「どれだけと言われても、わからん」
「…ま、そうだよな」
「もう大分忘れてしまった」
そう言って桂は視線を俺から逸らし、正座した自分の膝に目をやった。
ひたすらに、蝉が五月蠅く鳴いている。虫の声すら、あの頃とは違っていた。
時は止まらずに、常に何かを変化させながら進み続けているはずなのに、俺と桂のたった二人だけ、一番最初の地点から変化を許されずに立ち止っているみたいだ。
「永祿山はよく覚えている」
その戦のことは俺も覚えていた。幕府軍と天人軍に対し、桂とたった二人で囮となり、部隊を撤退させたのだ。今から思えば無謀でしかない作戦だった。
あの時桂は、殿を引き受けた時点で死を覚悟していたそうだが、俺は自分が死ぬなんて思いもつかなかった。
俺は強いし、それに桂が俺の背を預かるのだから、死ぬはずがない。そんな薄い根拠で死線に挑んだ俺は、やはり若く、手ぶらだったのだろう。
だから、桂が腹を切ろうと言った時は、悲しかった。俺たちにはまだ動く力があった。立つ力があった。死ぬ時が来るとすれば、それはどちらかがどちらかの背中を守れなかった時だ。
まだ、俺の背中は桂の背中を支えとしていたし、桂の背中は俺の背中を支えにしていた。だから、生きられる。
俺はそう考えていたが、桂は違っていた。それは、大いなるすれ違いのようで、桂と俺の生きる道が根本的には別なのだということが露呈したようで、
その時の俺は悲しくもあり、腹立たしくもあった。
美しく心中するよりも、生きようともがきたかった。桂と共に、生きていたかった。
「そーね、ありゃ無謀だったね」
「後にも先にも、死のうとしたのはあの時だけだ。お前が言った言葉が、あの後も何度も蘇るようになったからな」
「あれだな、人生を変えた名言ってやつ」
そう茶化しても、桂はにこりともしなかった。
「…あの戦から帰って死にかけたが、その時もお前の言葉は頭に何度も浮かんだ」
それは初耳だった。桂は苦しみながら俺のせしめたヤクルト代のことしか口にしなかったから、まさかあの時に俺の放った苦し紛れの一言が桂を生かしていたとは 思いもよらなかった。
最期まで美しく生きよう___それは死にたがりの桂の命を何とか繋ぐために出た命がけの言葉だった。最期まで俺の背中を守ってほしいという、いわばエゴの塊だった。
桂はそれすらも受け入れて、今ここに傷ひとつなく座っている。桂と共に生きたいという勝手な願いは、理想通りとはいかずとも、叶っていたんだと今やっと気付いた。
だけどそれも、もうおしまい。気付くのがたぶん、遅すぎた。
「まあ、何だ。銀さんの名言を魂に刻んで、今後もバイト頑張って」
「バイトじゃない攘夷だ」
何を以て攘夷活動としているのか、桂の考えは昔よりもずっとわからなくなっていたが、少しでも危険を避けられているのならそれもいい。
何かでかいことをしでかして、不穏な噂をどこかで聞きつけないことを願う。今から俺がしようとしていることも、いわば攘夷活動なのかもしれない。
俺は出された麦茶を一息で飲んで、腰を上げた。桂が俺を見上げる。凛とした光を湛える真っ直ぐな奴の目が俺は好きで、たまに苦手だった。
俺が桂と初めて越えるべきでない一線を跨いだ夜も、こんな眼をしていたから、それを思い出すのだった。此奴は友人ではない、と思い知るのだ。
この眼の色を、俺は懐かしむのだろうか。桂は何か言いたげに見えて、何も言いたくなさそうにも見えた。
俺が何を考えて、これからどうしようとしているのか、全てを見通している気もするし、何も気づいていない気もする。
俺は愚かにも、桂をいとおしいと感じた。離れたくないと思った。此奴にだけは連絡を寄越そうかとも思った。
俺は何か口にしたかったけど、気の利いた文句が思い付かなかった。その代わりと言っては何だが、俺は腰を屈め、桂の目線に顔を合わせた。それから、桂に久方ぶりの口づけをした。
黙って此奴の前から姿を消すのは二度目だと気付いた。今度こそ、桂は俺を許さないだろう。それで構わないと思うのは、薄情なのだろうか。
「銀時、…」
唇を離すと、桂は小さな声で俺の名前を呼んで、そのまま口を噤んだ。
俺は桂が何か言い出す前に、少し笑って、その場を後にした。
振り返りたい衝動を抑えつけながら歩く道は、見た目はまるで違うが、戦場から逃げた雪道と同じ、果てのない道だった。