弐
また、宿を失った。銀時は未だ花をつけずにひっそりと眠っている桜の大樹の下で、そう思った。
枝々の隙間から覗く空は蒼く、風は温い。この風景を彼はよく知っていた。
村の外れの丘にひっそりと忘れられたように咲く一本桜の存在を、村人はあまり知らない。それと言うのも見事な桜並木が山の麓にあるからだ。
見栄えのいいそちらに、皆は揃って花見をしに出かけていく。未だに村人の多く集まるところを、銀時はあまり好かない。
銀時は思い出していた。その夜のことを、遠い昔の、自分自身の人間としての始点のことを。
「別に捕って食いやしませんよ、童」
その夜も同じように、銀時は小さな身体で大きな日本刀を振り回し、浪人と呼ばれる小汚い侍風情の集団を襲撃して全滅させた。
金品あるいは金になりそうなもの、衣類、食料に武器など獲れるものは何でも獲った。それは顔も知らない親に捨てられた小童が行き着いた、唯一の生きる方法だった。
白髪に灼眼の異形をした少年は、まるで備わっていたかのような尋常ならざる戦闘能力を細い手足をめいっぱい使って活用して生きていた。
異形をしているから力を与えられたのか、力と引き替えの異形なのかは知らない。銀時は長い間村落を転々としていたが、何処の共同体に行っても人々の反応は
同じだった。濡れ衣もいくつも着せられた。誰も銀時を地獄の底から助けようとしなかった。だから銀時は、何の罪悪も感ずることなく殺し尽くし、
奪い尽くすことができた。
穏やかな声とは不釣り合いな剛力で、その優男は自分に殺意を持って向けられた脇差を押さえ込んだ。銀時はこの時初めて返り討ちに遭った。
振り払おうと渾身の力を腕に込めても微動だにしない。精一杯敵の顔を睨み付けると、その男は淡々と言った。
「いけませんね、その瞳は。よくない瞳だ」
この野郎。頭に一瞬で血が昇ったのを感じ、そこはかとない殺意も同時に感じた。
こんな瞳にしたのはお前たちだろう、と心中で苦々しく吐き捨てた。
「…どうした、早く殺せよ」
いつまで経っても次の攻撃に移ろうとしないその男に、銀時は吐き捨てるように言った。
自分が村にとってどういう存在か、銀時にも自覚はある。首を村に持ち帰っても気味悪がる者こそいれど、哀れむ者はいないだろう。
自分自身、こんな命に執着などない。
殺される直前だというのに、銀時は極めて冷静だった。
今まで見てきた絶望した顔、命だけはと懇願する顔、大の大人のぐしゃぐしゃになった泣き顔が淡々と脳裏に浮かぶ。
自分が殺めた者たちがどうしてそんな顔をしたのか、殺される今になっても銀時には理解できなかった。
「童、お前は太刀筋はいい。しかし本当の剣というものがまるでわかっていませんね」
男は微笑を浮かべながらそう言った。銀時の動きを完全に封じながらも、その瞳は慈愛に満ちていた。
そんな瞳を、銀時は初めて見た。なんて変な大人だ、と思った。
「どうです」
銀時が抵抗を緩めると、男は安堵したように笑ってこう言った。
「お前の命を助けてやる代わりに、私と来ませんか」
それが、吉田松陽との出会いだった。そのとき初めて、銀時は人間の男と出会った。
「銀時」
記憶の海に溺れかけていた銀時の名を、聞き慣れた声が呼ぶ。
木の太く大きな幹を枕代わりに寝そべっていた銀時はちょっと顔を上げて、近寄ってくる黒く長い髪の少年の姿を認めた。
陽光に包まれながら靡く絹糸のような髪。高い位置で結わったその髪束は、おぞましいほどに春によく似合っている。
男の髪になぞ興味はないが、純粋にきれいだと思う。昔から。
「よぉ、ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ。いつまで寝てるつもりだ?もうすぐに昼だぞ」
そう言って桂は銀時の胸に弁当らしき包みを置いた。丸三日消息を絶っていた相手との再会だというのに、まるで昨日も会ったような態度と口ぶりである。
ヅラという愛嬌のあるあだ名に対して頑固に見せ続ける拒否も健在だ。
「おっうまそー。黒豆だ」
包みを開き、用意された箸も使わずに銀時は何日かぶりのちゃんとした昼飯にありついた。
「あっ貴様、行儀が悪いぞ!箸を使え箸を!」
がっつく銀時に対し、桂は楚々として玄米を口に運んだ。
しばらくの間、桂も銀時も無言で食事に集中した。それはけして気まずい沈黙ではなく、寧ろ心地いいものであった。
「そういえばうちの太郎が、もしかしたら嫁を貰うことになるかもしれんのだ。もうそろそろ奴もいい歳だしな…わかってはいるが、何となく寂しくてな」
「そりゃあおめでと。これを機に犬離れすれば?」
「何を言う!たとえ誰かのものになっても太郎は桂家の大事な一員だ!大体あんなフワフワで真っ白で肉球のついた生き物ともう離れられるわけないだろう!」
桂とのやりとりは犬も喰わないような至極くだらないもので、そこにはまだ日常が存在しているように銀時には思えた。
残った米粒を指で摘んで口に入れながら、緩慢に流れる時の流れを肌で感じる。ひどく懐かしい匂いがした。
吉田に連れられてこの小さな村落にやってきた頃も、今と同じようにこの大樹に花は無く、代わりに梅の香りだけが大気に漂っていた。
だが懐古の要因は花だけでなく、寧ろ目の前にきっちりと座する幼馴染の存在がこと大きかった。
吉田の命で村塾に通わされる羽目になったとき、最初に紹介されたのが名家の養い子であるという桂小太郎だった。
銀時は一目で、彼とは相容れられないと感じた。
自分が歩んだ修羅の道とはまるで別世界で、しかし同じ分量の時間を生きてきた、綺麗な身なりの頭のよさそうな、「お坊ちゃま」。
こんな人間と同じ門下で学ぶなんて無茶だ、そう思ったのだ。
それ以外の連中も似たりよったりだった。比較的下級武士の子供が多く、桂ほど極端な例は少なかったが、それでも誰が銀時と人生の痛みを分かち合えよう。
親元で毎日きちんと旨い飯を食い、友と遊び、学び、健全にここまで育ってきた餓鬼どもと、どうしてわかり合うことができるだろう。
どうして共に生きることができるだろう。
銀時がそう思っていたように、塾の子供たちもまた、自分たちと銀時とは違う、と思っていた。
見た目が違うのは勿論のこと、不釣り合いな真剣を常備し、孤児だという。噂はしてもけして話しかけには来ない。
銀時はいつも教室の一番後ろの壁に靠れ、吉田が自分の入塾の無意味さに気づくことを呪うように祈っていた。
しかし、吉田の狙いは結果的に外れなかった。その「元凶」は、桂小太郎そのものだった。
村に来て直ぐに見つけた一本桜は、銀時の唯一の安息の場だった。群れずに一本で生き抜いている桜の姿が自分に似ていると思ったのだ。
塾のない日には一日中その木の下にいた。
他の子供たちが野山を駆け回っている姿も、村人の訝しむ視線もひそひそとされるうわさ話も、ここには届かない。何より平和だ。
襲ってくるものといえば、旋風ぐらいだった。
だが、嵐が吹いた。とんでもなく素っ頓狂で鬱陶しくて、迷惑千万の嵐が。
「銀時!」
自分を呼ぶ声がした気がして、銀時は微睡みから覚めた。
だが、当然誰もいない。自分の名を呼ぶ者などこの地球上であの妙な優男ぐらいだが、それにしては幼すぎる声だ。
空耳だろうと再び目を閉じると、今度は間違いなく足音が近づいてきた。しかも、走っている。全速力で。
目を開けて刀を抜いた、とほぼ同時に、目の前で黒い髪の娘のような少年が露わにされた刀身を見て急停止した。
腕いっぱいに本やら弁当やらを抱えて、頬を上気させている。
大きくて吸い込まれそうな黒目に、同じぐらいの黒さを誇る長い髪。筋の通った、だがふっくらと柔らかそうな鼻梁。
銀時が一番苦手で関わり合いになりたくない、桂小太郎だった。
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