吉田松陽の処刑が極まった。
異例と言ってもいいほどの、早急な決定だった。
村には驚き悲嘆に暮れる者も居れば、予測がついていたのか甘んじて受け入れる者もいた。
桂小太郎はそのどちらでもなかった。否、その中間と言ったほうがいいのかもしれない。
予測は出来ていた。覚悟も出来ていた。
しかしだから平気だ、ということでも勿論ない。

受け入れたくなかった。
自分に士道だけでなく、遊び方や基本的な作法、勉学を、人生そのものを教えてくれた、大好きな優しい先生。
その人が、何の罪もないのに、殺される。
罪にならぬ殺人で以て、正々堂々とその尊い生命を奪われる。
こんな不条理がどうしてまかり通るのだ。先生は、この世はすばらしいものだと教えてくれた。
友や家族に囲まれて、毎日立派な武士へと成長し続けていける、そんな世界はとてもすばらしいものなのだ、と。
だがその世界そのものが、先生を殺す。先生を奪ってしまう。
どうしてだ?桂には理解できなかった。理解など、したくもなかった。
幸いなことは、そのことについて深く追求する余裕もないほどに、吉田の処刑決定の瞬間から多忙を窮めていたということであった。
萩から江戸に向かおうという同志たちと共に、桂も出立を決意したのである。
そのための準備や資金繰りに奔走している間は、様々な感情を封じることが出来た。
その甲斐あってか、何とか五月初旬には発てることになった。
その間、意に留めていた高杉とはほぼ断絶状態で、彼が今何処で何を思っているのか知る術はなかった。
もしかしたら、もう騒ぎを起こす手筈をすっかり整えて仕舞っていて、後は機が熟すのを待つばかり、
といった状況なのかもしれない。
桂だけでなく他の塾生にとっても不安の種であったが、知る術がない事態を知ろうと藻掻くより、
優先せねばならぬことが山積みであった。

だが、そんな多忙の中でも桂はもう一人の友人のことは忘れられなかった。
あれ以来__もうかれこれ一月近くになるが__眠れる桜の木の下で話して以来、桂は一度も銀時の姿を見ていなかった。
あの白髪は目立つので、ちらとでも視界に入れば彼の存在を容易に確認することができる。
しかしそのちら、もなかったのだ。
村の者に訊けど皆一様に口を揃えて知らない、と言う。
桂は今でも悔いていた。
今はもう殆ど散ってしまった例の桜の大樹のもと一人で、あの時どうして食い下がって、常のように装えなかったのか、と。
あの時、俺だけでも揺らがなければ。俺だけでも平生と変わらぬ様子で居られれば。
今の自分たちに足りないのは日常だ。桂は分かっていた。
しかし今となってはもう遅い。その日常を分かち合いたい一番の人間は、今隣にいない。









その内に、五月になった。銀時とも高杉とも連絡は取れない。
年長者数十名と同期十五名、引率の大人三名で江戸へ発つ旅団は形成され、桂は同年代の十五名の代表とされた。
良家の養子であるし、また勉学においても優秀であったから、妥当な人選と云えよう。養父も喜んだ。

萩から江戸まで、掛かって一月以上。
執行日の日取りは未定のようだったが、恐らくお上もそう悠長に構えてはいないだろう。
噂では、吉田と同じ論を唱えていた越前の橋本左外も幽閉され、処刑執行間近だと聞く。
吉田、橋本両雄が唱えていた論__つまり、お上が今躍起になって一掃しようとしている論は、俗に攘夷論と呼ばれており、
天人がこの地に足を踏み入れた5年ほど前からちょっとした流行となっている思想である。
流行にはまがい物がつきものであり、その定義もかなり曖昧なものになりつつあったのだが、
吉田の唱えるそれは実に一貫性があった。
要は、天人の存在は日本、ひいてはこの惑星そのものにとって有害であり、総ての文明を堕落せしめるものであるからして、
きやつらを排除せねばならぬ、ということである。
だが、ここで配意しておきたいのは、桂たち松上村塾の生徒たちはそういった思想を押しつけられていないという点だ。
勿論吉田の持論として生徒たちは懇切丁寧にその論について説明されたが、あくまでも彼は個人の思想を大事にした。
デモクラシイも始まっていないこのご時世には珍しがられるタイプの教育者であったといえる。
桂も、特に吉田の論に心酔しているわけではなかった。
天人が有害と言われても、小さな村には実害がないからいまいち実感が沸かない。
同じ年代の者たちは往々にしてそのようであった。
だが少し年上の者には、攘夷論を正論とし、吉田の思想を受け継ごうと奮起している者もいると聞く。
桂は道中、その年長者たちに攘夷論について詳しく教えて貰った。
この一連の騒動で、今一度考えてみなければならない、と強く思うようになったからだ。
もう、他人事ではないのだ。桂はそう強く意識した。


一行は予定通り、一月ほどで江戸に到着した。
見渡す限りの人、人、人。流石は城下町だ。
見たこともないような露店や、派手な着物の女たち、それに聳え立つ江戸城。
初めて見る華の都だったが、今はただ恨めしいだけである。
荷を解いたあと、暫くの暇が許された。
皆そのような気分にはとてもなれなかったが、暫く滞在する街を下調べする必要があった。
桂は同年代の者数名と共に、街へ繰り出した。
高杉たちが遊学していると聞いていた場所を桂は数回の文通で知っていたので、兎に角其処へ向かうことにした。
莫迦な考えを起こしていなければいいが、と桂は思った。
遊学当初は「一月会わないだけで何年も会っていないような気がする。萩が恋しい」と書いて寄越していた高杉だが、
その後は特に寂寞に襲われることなく順調に勉学に励んでいたと聞く。
あの襲撃計画を綴った手紙のすぐ前までは、新しく学んだことや発見したことばかりを、何枚にも渡って飽きもせずに書いていたというのに。




「…え?」
「もう数週間前になりますかねぇ。萩の親元から帰るよう言われたから、と皆さんお揃いでとうに発たれましたで」



高杉一派が塒にしていたという宿に行って聞かされたその事態に、桂は少なくない不安を覚えた。
高杉は知らないのだろうか。先生の処刑が極まったことを__。

他に行きたい場所もなく、足取りも重く桂たちは其処を離れた。
江戸の空気は好きになれない、と桂は暗い気分でそう思った。
もう自分たちの宿に帰ろうか、と話し合っているとき、桂は唐突に人混みの中に輝く白髪頭を視界に認めた。



「ぎん___」
だが、咄嗟に冷静さが桂に囁く。こんなところに居るはずがないだろう、と。
白髪頭、というだけなら江戸には老人がごまんといる。きっと過敏に反応しすぎなのだ。
しかしどうしてだか桂は気になって仕様がなかった。
先に帰ってくれ、と言い置いて、人々を掻き分け掻き分けその白を追った。
周囲の者は皆、珍しい動物でも見るような目で桂を振り返った。

結構な距離を追いかけたが、いつのまにか白髪頭はどこかに消えてしまった。
急に馬鹿馬鹿しさがこみ上げてきて、桂は薄汚い路地裏で小休止した。

莫迦だ、俺。銀時なはず、ないのにな。

壁に背を預けて弾んだ息を整える。
ふと、宿までの道がわからないことに気がついたが、まあ何とでもなるか、とその場にへたり込んだ。
大通りでは、誰もがざくざくと前進していく。生き急いでいるような印象を桂は受けた。

この中の誰か一人でも、師のことを案じている人間はいるだろうか。
この町では、他人の死のことなど皆どうでもいいと思っているような気がする。

先生。先生、導いて。

封じていた恐怖や寂寞が怒濤のように桂の身体を駆け巡り、それは目元まで来て涙に変わった。
思わずうずくまり、少し泣いた。
男児たるもの涙は流さぬ、と決めていた桂にとって、それはとても屈辱的だった。



そのとき、路地の方から草履が地を踏む音がした。




「……ヅラ?」




その懐かしく無礼なあだ名に、桂は赤い眼のままばっと顔を上げた。

「迷子?」

其処には、白髪頭に薄汚い袴に、立派な日本刀を携えた、まごうことなき幼馴染みが困り顔で立っていた。



「銀時…!」



一月、いや二月ぶりの再会__嬉しさと安堵が一気に押し寄せてきた。
だが、桂のしなやかな身体は全く感情に則さない行動に出た。



「この大莫迦者があああああ!!!」
「ぐはあああ!!」



桂は渾身の力を込めて銀時の顎に掌底を喰らわせた。銀時は大通りのど真ん中にまで吹っ飛んだ。
周りの女はきゃあっ、などと短い悲鳴を上げて銀時を回避した。
白髪頭を見て、天人ではないかと噂噺をする者もいた。


「どれだけ心配したと思っとるんだ!!どれだけ貴様を捜していたか!!
この二月連絡も寄越さずに!!そんな風に育てた覚えはありませんよ!!」
「何で途中からお母さん口調!?いや、悪かったよ悪かったけども!
再会していきなりアッパーはねえだろ!モロ入ったんですけどおおおお!!」


年端もいかない小汚い青年二人__しかも片方は白髪、片方は娘のような風貌__の痴話喧嘩は、
当然道行く者総ての眼を引いた。
火事と喧嘩は江戸の華、とはよく言ったもので、いいぞ、やれやれー、などと囃し立てる者までいる始末。
同年代ぐらいの町娘たちは、数人で固まってひそひそとおしゃべりしながら愉しそうに此方を見ている。


「ここじゃ話にならん!場所を変えるぞ案内しろ!」
「なんっだそりゃ!説教する相手に道案内頼む莫迦が何処にいんだ!」
「莫迦じゃない桂だ!今朝着いたばかりの人間が地理に詳しいわけがなかろうバーカ!」
「うっせえお前がブゥアーカ!!」
「ブゥアーカじゃない桂だ!!もう一発お見舞いしてやろうかあああ!!」



「そこ、何してる!!」



騒ぎと人だかりを聞きつけ、同心が十手を持って駆けつけてきた。
今捕まると厄介なことだけは共通の認識である銀時と桂は、一目散にその場から駆けだした。
こら待てぇ、と追いかけてくる同心と、がんばれよ坊主−、と声を掛けてくる町人を尻目に、
目にも止まらぬ早さで二人は広い江戸の街を全力で走り抜けた。