その日の朝は常と変わらない体で訪れた。
こんなにも恨めしい夜明けは初めてだ、と桂は朝食を咀嚼しながら思った。
米が鉛か何かのように重い。それは広間にいる者全員に共通しているらしく、感じたことのない重い沈黙が部屋中に蔓延していた。

  晴れていた。こんなよい日に、誰かが死ぬなんて思いたくもない。鴉さえ鳴かぬだろう。
それなのに、今日この太陽の下で、尊敬して止まない師は打ち首にされる。
何処の馬の骨ともわからぬような執行役に、言葉を、思想を、肉体を奪われる。
重罪人として扱われていた吉田は厳粛な面会謝絶状態で、見舞うことさえ遂に叶わなかった。
何度も訴えかけに役場へ足を運んだが、門下生というだけで煙たがられた。不条理に、桂の心中では初めて覚えるどす黒い憎悪が渦巻いた。

隣にあぐらをかく、白髪頭の友人を横目で窺う。こんな朝でも銀時はがつがつと朝食を摂っていた。
図太さが為せる技なのか、それとも悟りでも開いたのか。
銀時は再会以来特に変わった様子もなく、吉田への面会さえ気にかけていないように見えた。
見えるものだけが全てではないにしろ、桂は其処に少しの寂寞をさえ感じた。
矢張り、彼は自分たちを頼ってはくれない。誰よりもどうしようもなく辛い筈なのに、何も教えてくれない。
はぁ、と深く吐いた溜息は更に飯を不味くした。


「ヅラぁ」
「ヅラじゃない桂だ」
「残すんならそれくれよ」


そう言ってねだるのは、食後の口直しに用意された林檎の切れ端である。
こんなときでも甘味への執着は健在か、と半ば呆れて桂は銀時の食膳に林檎をやや乱暴に落とした。
銀時はすぐにそれを口に運ぶかと思いきや、半紙に包んで懐へ仕舞った。


「あとで喰うんだよ」


卑しいものを見るような目つきをしている桂に、銀時は言い訳をした。
桂の口からまたひとつ、溜息が零れた。
























見せしめの意味を大いに孕んだこの処刑は、江戸のど真ん中の刑場で行われることとなっていた。
桂たち村塾生の一行が重い足取りと共にそこへ到着したときには、興味本位に集まった江戸の民衆たちが予想より大勢見物に来ていた。
全員に斬りかかりたい衝動に見舞われながらも、桂たちは彼らを掻き分け最前へ腰を据えた。

既に処刑の用意は済まされてある。
本や何かでは読んで知っていたが、初めて見る死のための筵、血溜まり穴と呼ばれるぽっかりと空いた穴。
きっと地獄とは此所のことだろう。この場で何人もの罪人が首を撥ねられた。
何故、こんなところに先生が。考えれば考えるほどに、気が触れそうになった。

この世で一番見たくない光景なのに、どうして自分はそいつが一番よく見える場所にいるのだろう。
矛盾を尽くした話ではあるが、桂は自分を責め苦に遭わせることで、このえもいわれぬ苦しみから解放されるような気がしていた。
また以前のような幸福で満たされた日々に回帰できるような気がしていた。

おぞましいぐらいにいい天気だ。何を祝福している?
背に受ける陽光がひどく場違いで、寒気さえする。喧噪もどこか遠い。しかし隣にいる銀時だけは、何よりも近かった。
彼の白髪頭はかつて在った日常の証拠であり、細い糸のようだが確かな安寧を桂の折れそうな心にもたらした。
更に其れを追求しようと、殆ど本能的に彼のだらりとしなだれた腕に触れる。銀時は一瞥しただけだった。
掌を掴むようにして繋ぐと、微かだが握り返してくれた。



焦れたように時間は過ぎ、やがて刑場に同心たちが現れた。
彼らに両腕を拘束された状態で、真っ白な死に装束を纏ったその人は、余りにも優雅に桂たちの目の前に現れた。


せんせい。


呟きそうになった言葉は止まる息に合わせて死んだ。代わりに銀時の手を握る力を更に強めた。

先生はいつも通りだった。今から授業を始めます、と言い始めても何らおかしくはなかった。
少しだけ痩せたような気もするが、それ以外はいっそ不思議なほどに何も変わってはいなかった。
否、寧ろ常よりも遙かに穏やかな空気を一身に纏っていた。
桂は萩で読んだ辞世の句を思い出す。
魂が死んでしまっては身体が生きていても死んでいる。身体が死んでも魂が生きていればその人は生きている。
そんなことが、薄い紙切れに細い字体で書いてあった。

先生は最後まで先生だった。あの人は今この瞬間に、辞世の句を体現しているのだ。

これは最後の教え。この土壇場が最後の教壇であり、三日間晒されるであろうその首が最後の教鞭。

繋ぐ掌が焼かれたように熱い。熱い、熱い、熱い。
どくどくどく、流れてくる。生の流動が、回転する未来が。
生きていく命と死んでいく命の対峙が図られる。
温かいこの晴天の下。おかしいほどにいい天気。




どっ、という音がしたかと思うと、桂の視界に赤い滝が映った。
周囲は嘆き、喚いている。師の名を声高に叫んでいる。ああきっと、地獄ってこんなところ。
しかし桂は磔刑に遭ったように動かない。それは銀時も同じだった。
だがそれは、銀時を桂が磔にしているからかもしれなかった。
相も変わらず熱い手。俺たちは確かに生きている。地獄の真ん中で生きている。
涙も出ないのは、ここが現ではないからだろう。
それでも理性の切れ端で受容する。先生が死んだ。
弔いの言葉も出ずに、ただひたすらにこころで叫び続ける。頽れたこころで慟哭し続ける。
先生、先生、先生、先生。


















(せんせい)


















見物客もはけた頃、ようやく帰ろうという話になった。そのときに、桂と銀時の手はどちらからともなく離された。
誰かが先生の改葬をしようと声を荒げている。
重罪人の処刑は元来から、親族らに遺体を受け渡すことは禁じられている。
師は武士だったから、下手人らが武士階級の者の刀の出汁にされるというおぞましい試し斬りの風習の被害には遭わなかったが、
それでも何処とも知れぬ寺におざなりに埋葬されることは屈辱的であることに違いなかった。

嗚咽混じりの誰ぞの訴えに賛同する声が上がる中、桂は虚無感に苛まれていた。
今は何もしたくはない。帰りたかった。養家に、温かな萩に。正確には、あの日々に。


「…銀時?」


銀時はというと、塾生の輪には入らずになにやら懐をがさごそとまさぐっていた。
怪訝に見守っていると、銀時は今朝方桂から奪った林檎の入った包みを取り出した。


「…ぎん…」

「先生、林檎好きだったんだよね。なにかってーと飯の後に剥いてた。
でもさ、俺も甘いもん好きだから、いっつも先生の分も全部平らげちまってた。さして好きでもねぇのにさ。ばっかみてぇ」


言い終わると、銀時は渾身の力で林檎を刑場に投げ込んだ。



「先生、」
「ごめんな」



銀時がその時泣いていたのかどうか、桂は知らない。
萩の林檎は甘い。とても甘い。先生も好きだったのかと、桂はこの時初めて知った。
銀時が宿とは逆方向へ足を向けたあと、桂の目からやっと一筋涙が零れた。
苦痛と憎悪と絶望の合間から絞り出したような涙だった。



銀時は夜が明けてまた暮れても、遂にそのまま宿に戻ることはなかった。
仕方なく桂は七日目の早朝、塾生と共に萩へと帰った。
生い茂る林檎の木のことを想った。



















先生に黙祷