記憶が悲鳴を上げた。
どうしてか夢というのは、臭いも感触も総て正確に体験させてくれる。
ああ、俺は確かに感じたのだ。
お前がいつも護ってくれていたこの背中に、それはそれは見事な刀筋が入って
それから赤い赤い体液がまき散らされる過程、灼けるような痛みに先程まで体内を
駆け巡っていた己が血の臭いを。
そして、是もまた疑う余地もなく俺は薄れてゆく景色の中で確かに見たのだよ。
俺を斬った白い獣、あれは紛うことなくお前だった。








空がいつもより近い。
今日の午後に、北上してきた大型台風が江戸に最接近するという情報は昨日の夜に聞いた。
窓を強い風がひどく揺らしているが、雨が降る様子はない。
ひゅおお、と蠢く風の声は不気味な何かを連れて来でもしそうであった(それこそ初めて視た天人のような)。
体調が幾分優れないのは夢見が悪かった所為か、台風の所為か。
もう正午は過ぎたというのに俺は未だ寝間の儘で、蒲団の中からぼんやり灰色の空を眺めていた。
用意された食事にも何となしに手を付けられず、かといって薬を飲もうにも効く薬を知らない。
じくり、と左肺が痛んだ。不用意に深呼吸をすると痛む。
何ということはない、幼い頃からよくあることだった。医者に詳しくかかったことはないが、
この歳まで大きな病気をしたこともない。勿論、日常生活に支障をきたしたことなどない。
だから今日何故こんなにも自分が病人のように感じて仕舞っているのか、甚だ疑問である。
 先刻から外で鴉が五月蠅い。黒いその姿は捉えられないが、ぎゃあぎゃあと集団で鳴き続けている。
五月蠅い。死人でも出たか、と考えていると次は飛行機が騒音を立てて空を闊歩した。
其の音ですら常よりも近く感ぜられて、又肺がぎゅるりと軋んだ。
鴉は仏教では、三千世界の守り神だというが本当だろうか。
そういえば昔、俺を鴉に似ていると云った男がいた。
彼は今朝夢の中でその鳥を殺した。
背中に斬られた感触がまだ残っていて、その所為で俺は実は本当に彼奴に斬られて、
命からがら助かったのではあるまいかと少し不安なのだ。
あの独特の、誰から教わったでも一人激しい練習に打ち込んだようでもない、粗雑でまっすぐで
何よりも美しい太刀筋は斬られながらでもその完璧さが窺えた。
死を纏った絶対美が其処にあり、そして其れを自在に操る白夜叉はこの世で唯一無二の王のようだった。
ぎしり、と一段激しく軋む肺を感じながら俺は其の芸術に身震いをした。
意識が遙か昔に跳ぶのがわかる。
そうだ、白夜叉は美しい、俺はあんなにも美しい生き物を視たことがない。
彼奴が人を殺すさまは完全そのものだった。今朝の夢では確かに感じた恐怖も、其の夢を反芻し味わう
今此の瞬間には悦楽に近いものに姿を変えてしまった。
昔はよく彼奴に殺された人間の死体を眺めては羨望にも似た願望を抱いたものだった。
今考えるとあの頃の俺は少し、_いやかなり、狂っていたんだろう。
だが其れは俺だけに限ったことではない。あの戦場の中でまともな者とは狂った者だったのだ。
それでももしも、誰もが迎える最期を迎える刹那は、できる限り美しく斬られて死にたいと思った。
そしてその理想の太刀筋は白夜叉のものだった。
(今も其れは、)
(あまり変わっていないかもな)
咳払いをひとつしても、妙な悦楽感と不気味な孤独感は拭えなかった。
俺は未だ、狂気に囚われているのやもしれんな、と思うと微笑するより他はなかった。

「ヅラァ、入っていー?」



了承を不要とする問いかけと共に、胸中にいた理想の男が何の前触れもなく姿を現した。
此の男の唐突すぎる来訪には何故かいつも驚けない。
「何、まだ寝てたの。昼だよもう」
銀時は勝手知ったるといったように押入から煎餅蒲団を取り出すとその上にどっかと座り、
コンビニの袋をがさがさやってジャンプを取り出して読み始めた。
「…何しに来たんだ貴様」
「ジャンプ読みに。食べる?」
そう云って差し出されたのは桃色の包装紙に包まれた飴玉だった。
大人しく受け取ると、銀時は軽々と同じものを口に放り込んだ。
そして再び茣蓙をかいたまま続きを読み始める。
俺はその姿をちょっと見つめて、また灰色の外の世界に視線を向けた。
肺が痛い、治らない。銀時は目の前に居るのに、白夜叉は俺の頭の中にしかいない。
理想の殺人鬼は、手を伸ばせば届く範囲で休息しているのに俺の躁鬱は晴れずに留まっている。
其れが産み出す孤独感が俺の途方もない自傷願望を掻き立てているのだ。
肺が痛い、治らない。強風の窓を叩きつける騒音、唸りとページの捲られる音。
俺の意識は此奴が捨てた過去の上で未だ踊っているのに身体は銀時の前で痛む肺を抱えながらも
固として存在している。そういえば鴉はもう鳴かなくなった。きっと誰か死ぬのだ。
そして其れは、正に此の俺なのかもしれなかった。
(だってこの街中何処を探そうと、今以上に死に近い精神は在りはしない)
四角い部屋には一定の拍で紙と紙が擦れる音が響いている。俺はもう外を見ていない。
しかし何処を視ているのかもよく分からなかった。
「お前、具合悪いの」
与えられた言葉に銀時の顔に視線をやると、いつもの締まりのない顔に何処か真剣さが垣間見られた。
「…肺が」
「…あぁ…寝込むなんて珍しいな」
「……そうだな」
「飯は、…どうせ喰ってねぇか」
そう云うと銀時は読んでいたジャンプを置き、立ち上がって此方へ這ってきた。
そして無骨な手の体温が背中に伝って、衣擦れの音がする。昔から、どこかしら調子が悪いと漏らすと
銀時は決まって背中をさすってくれた。
傷が痛むときも、今のように肺が痛むときも。

「なーんか、懐かしくね?」
こういうの、よくやったよねー、と銀時が云う。その体温も少し強いくらいのさすり方も変わっていなくて、
そしてこの行為を彼が覚えていたことに何より安堵した。
「……ああ」
「まだ痛い?」
「…ん…」
変わっていないものがあるというのは、不気味な程に心を軽くさせた。
今在る世界と昔愛した世界は一片の共通点もなくて、其れに伴って俺も銀時もみんなみんな
変わってしまってもう二度と戻れないのだが、些細な思い出は俺と銀時の中に残されていて、
そしてそれは現在と過去を繋ぐ唯一の糸のようだった。
「なぁ、銀時…」
「んー」
「朝、お前に殺される夢を視た」
銀時の手がぴくりと微量の反応を見せたことで彼の動揺が悟られたが、あくまでも彼はまた悪趣味な、と云って
笑った。
「綺麗な太刀筋だった。俺はあんな風に斬られるのがいい」
今度は銀時は何も言わなかった。少しだけ、さすり方が優しくなった。
「なぁ、白夜叉」
お前は俺を斬って呉れるか?
銀時の瞳は見ずにそう云ったのは、幾分卑怯だったやもしれんが、俺はそう尋ね終えたあとも中空を見つめた儘だった。
今度ばかりは銀時も背中をさするのを中断して静寂を強いていた。
ふ、と溜息を吐くと矢張り未だ肺は鈍く痛んだ。
「馬鹿。もう無理だよ」
白夜叉は死んじまった。
そう呟いた声はどこか淋しげで、此奴も白夜叉の死を悼んでいるのだろうかと思うと不思議な心地がした。また背中に一定の感触。
「でも、お前に望まれたら、出てきちまうかもな」
何て歯の浮くような甘い科白なのだろう、と俺はぼんやり想う。
俺の好きな低い、情事のときの声音で甘い愛を囁かれるのにはあまり慣れておらず、夢で斬られた背中を同じ人間に
さすってもらっているアンバランスさも相俟って、恍惚とした。
「…銀時」
「お前も、俺がなれって云ったら、鴉になれる?」
「鴉」
「そ。お前真っ黒で身軽で、人のこと見下したみたいに斬ってたでしょ、だから
鴉って勝手に想ってた。あん時のお前の顔に、いっちばん欲情した。イイ顔してたよ」
「…そうか」
「死ぬ時はお前に見下されながら斬られて、あの顔に嘲笑われながら死にたいって想ってた」
いつの間にか例の行為は中断されており、その代わりに銀時のごつごつした手が焦らすように胸元を這い回って、
俺の襟を開いていた。唇が耳に、項に落とされる。ぎしりと軋む肺と共に、中心で生まれた熱を感じ、久しぶりに欲情した。
其れは戦地で行った行為と酷似していて、戦慄が走るのを感じた。
「んう」
「いいね、今日。可愛気あんじゃん」
「…誉めても何も出んぞ」
「いいよ。鴉、食べるから」
くちびるが重なる。荒々しい口づけは確かに白夜叉のもので、女のように声を上げて鳴く俺は奴の云う鴉そのものであった。
 肺の痛みも、轟音も灰色の空も夜叉も鴉も皆、過去から間違えて持ち込まれたもののようで、崩れるまで踊っていた俺の意識と
嬌声を上げる身体は、見事に白夜叉の腕の中に結ばれた。



(ああ、こんなにもあいしている!)



銀さんに殺されたい桂と桂に殺されたい銀さん
両思いなラブラブバカップルのはなし