遠瀬に汽笛の音が鳴る。
一羽のカモメが気持ちよさげに海を渡っているのを、ズラ子はぼんやりと波止場に座って眺めながら、昔に読んだカモメの小説を思い出していた。
異国の短い小説で、主人公はカモメの癖に飛行研究に余念のない、異端なカモメだった。そのせいでカモメは群れを追われて、一人で生きていく運命だった。
それを読んだ時、自分も近い将来このカモメのように群れを追われるのだと思春期のズラ子は漠然と思った。そしてそれは結果的には正しかった。
自分は普通の男ではなかった。だから、群れを追われて、この町に流れ着いた。
小さな漁港があるだけの、本州の最果てに近いこの町には、何故かつまはじき者が多くいた。
この町は要するに世の中に見捨てられた人々の流刑地のようなところだ、とズラ子は店に来る客や職場の人間を見る度に納得した。そんな世捨て人たちの連帯感のおかげで、
自分は今働けているのだろうとも思う。そうでなければこんな田舎町で、女の恰好をして働けるはずがない。
そして昨晩、また新たな流刑者がやってきた。
眼に痛いほどの金髪が目立つその男は、酔い潰れながら、何故か自分の本名を口にした。
もう何年も呼ばれていない名前を呼ばれて、動揺したのか何なのか、とにかくズラ子は普段ならそんなことはしないのに、泥酔して動けない男を介抱し、店の中に入れてやった。
「ズラ子、なにその男。店に男連れ込むなってママに言われてるでしょぉ」
皿洗いをしていた同僚のアゴ美が、露骨に嫌な顔をして言った。
「店の前で酔い潰れて倒れていてな」
「そんなのほっとけばいいじゃないのぉ。まさか、昔の男か何かじゃないでしょうねぇ」
「そうではないが、…知り合いかもしれん。名前を呼ばれた」
酔い潰れた男を座敷に放り投げ、自分も隣に座った。アゴ美は顔をしかめ、「そんなの、もっと厄介じゃないのよ」と言い放って、また汚れた皿に視線を戻した。
「あたしは知らないからね。ママに怒られても」
この店の店主であるお登勢は、金髪の男と同じく酔い潰れ、日本酒の瓶を後生大事そうに抱えながら奥の座敷で鼾を掻いていた。
後で謝ればいっか、とズラ子は自分でも驚くほど楽観的に考え、二人分の毛布を取りに二階へと上がった。
我ながらどうかしている。ズラ子は結局あまり眠らずに店で朝を迎え、波止場で茫々と昇る朝日を見ていた。
自分に昔の面影はないはずだが、もし昨日の男が、捨ててきた故郷の者だとすれば厄介だ。
小さな村から逃げるようにして出ていったのは十年も前で、それから親兄弟にさえ一切の連絡を取っていないのだ。
あの男がもしも家族に通じれば、自分はまたあの家に引き戻される。それだけは避けたかった。
にも関わらず、わざわざ自分から助け舟を出してしまったのは、自分の名を零した時に男が見せた表情が、あまりに悲哀に満ちていたからだった。
もし彼が、自分が傷つけてきた多くの人間の内のひとりだったとしたら、と思うと、見て見ぬふりはできなかった。
足音が聞こえ、ズラ子は後ろを振り返った。昨日助けた金髪が、寒そうに身を縮ませながらこちらへ歩いてきている。
「えぇと、助けてくれたのって、お兄さん?」
男はズラ子の前に立つと、間の抜けた声で、しかしそれとは釣り合わない完璧な微笑みを浮かべてズラ子に問うた。
「そうだ。思ったより早く起きてきよったな」
「昨日はありがとね。助かったよ」
ズラ子は男の顔をしっかりと見たが、やはり見覚えがなかった。男は口元に笑みを浮かべたまま、ズラ子の視線を受け止めていた。
初対面の相手にこう見つめられては奇妙に思いそうなものだが、男は全く動じていないようだった。暫くの沈黙の後、金髪は思い出したように切り出した。
「ねえ、俺の荷物知らない?」
「荷物?」
「茶色のボストンバッグなんだけど。どこにもなくってさあ」
「知らんな。貴様は身一つでうちの店先に転がっておったぞ。疑うなら店中を調べてみろ」
ズラ子は強い潮風になびく髪を押さえながら言った。すると男は、はは、と笑い、
「あんたのことは、ちっとも疑ってないよ」
と言った。ズラ子は少しだけ驚いた。男の視線は、明らかに堅気ではない人間に対して向けられるには、あまりに真っ直ぐなものだったからだ。
ズラ子は思わず男から視線を逸らした。
「…あれだけ酔い潰れていたんだ、どこかで落としたんだろう。金は入っているのか」
「うん。二百万ぐらい」
「二百!?」
予想外の額にズラ子は目を剥いた。逸らした視線を再び男の顔へ戻さなければならなくなった。
「貴様は馬鹿か!?何でそんな大金を持ち歩くんだ、ここにも銀行ぐらいあるぞっ」
「ねー、バカだよねー」
大金を落としたというのに、男は拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。まるで他人事のようだ。むしろ赤の他人のズラ子の方が騒いでいる。
「無駄足だろうが、とりあえず警察に行け」
「んー、そうしたいけどとりあえず寒いし、腹減ってんだけど」
ひっきりなしに吹き付ける海の風に肩をぶるっと震わせ、男はぬけぬけと言い放った。 どういう目的でここにやってきたのかは知らないが、当面の生活資金であるはずの金を落としてどうしてそんな態度でいられるのか、ズラ子にはわけがわからず、苛立ちさえ覚えた。
「…来い。何か適当に食わせてやるから、その後すぐ警察へ行け」
「交番まで案内してくれる?」
「ああ、わかったから早くしろ!」
ズラ子は肩を怒らせて小走りに店へ戻った。全く急ぐ様子もなく、男はズラ子の後に続いた。
売り言葉に買い言葉で、いらぬ世話まで背負い込んでしまったとズラ子は思ったが、乗り込んだ船だと腹を括った。
そもそも昨夜この男を助けた時点で、いらぬ世話を買ってしまったのだから。
それにしてもわけのわからない男だ。大金を落としても、酔い潰れた挙句オカマに世話を焼かれても、何でもないといったようにへらへらと掴みどころなく笑っている。
まるで笑う以外に感情表現を知らないようだ。一体何が目的でここへ来たのか、これからどうしようというのか、ズラ子には皆目見当がつかなかった。
簡単に作った朝飯を、男はうまそうにたいらげた。この魚うっめー、とがっつく姿はまるで子供だった。
座敷で潰れていた店主の姿はなく、状況を説明する手間は後回しになった。
交番へは、着替えて行きたかった。着物は脱いでいたが、女物の部屋着を着ていたのだ。
それを金髪に訴えると、「なんで?似合ってるよ」とまるで口説くみたいな口調で言った。
「警察にこの恰好では行けんだろう」
「そーなの?俺がいたとこじゃ、女装のまんまでみんな行ってたけどなあ」
それを聞いてズラ子は固まった。まさか、こいつ同業者だったのか。もしかして仕事仲間だったとか、と新たな可能性に気付いたが、ズラ子の動揺を見抜いた男は
「あ、俺は女装してないけどね。似合うわけないもん」と付け加えた。
同業者ではないようだが、少なくともこいつも堅気ではないようだとズラ子は確信した。
ならばバーテンかホストといったところか、と勘繰っていると、またも男は心を読んだかのように、「もともと歌舞伎町でホストしてたんだ」と自ら告白した。
「…東京か。こっちは故郷か」
「うん。ま、この町じゃないけどね。店では金ちゃんって呼ばれてたから、そう呼んでよ」
男は尚も人懐っこい笑顔を浮かべて初めて名前を名乗った。やはりその名にも覚えはなかった。
「いい年してちゃんづけはないだろう。本名は何だ」
「本名なんていいじゃん。お兄さんも本名で呼ばれるより、源氏名の方が嬉しいでしょ」
それはそうだが、お前は俺の本名を知っていただろうが、とズラ子は思ったが、詮索を拒否されたのではこれ以上踏み込んでいい義理はなかった。
何せ昨日の夜会ったばかりの人間だ。ズラ子はおとなしく金ちゃんと呼ぶことにした。
「俺のことはズラ子さんと呼べ」
「えー、さん付け強要?俺もズラ子ちゃんって呼びたいなあ、いーでしょ?」
ある程度の距離を置いたかと思えば、今度はその距離を飛び越えようとしてくる男の身軽さに、ズラ子は翻弄されそうになった。
好きにしろ、と言い捨て、「その代わり、俺は今から着替えに帰るからな」と交換条件にもならない条件を提示した。
男、金ちゃんは「はいはい」と優しく宥めるように答えた。これではどちらが世話を焼かれているのやら、とズラ子は額を押さえた。
交番へは結局無駄足で終わった。 対応した巡査は馴染みの客の一人だったが、男の恰好で、さらに長い髪をわざわざニット帽の中に隠したズラ子も巡査も、暗黙の了解で互いを知らぬふりをした。 この狭い町では、そうすることが得策なのだ。
ただ、巡査の興味は金ちゃんに全て注がれていた。それもそのはず、見事な金髪のパーマ頭で、落し物は現金二百万円の入ったカバンと来れば、こいつは何者かと
訝しんでもみたくなる。住所はなく、身分証明書もない。交番で名乗った名前は「坂田銀八」だったが、それすらも偽名かもしれなかった。
「いやー、怪しまれちゃったねえ。今頃指名手配中の逃亡犯と思われてるかもなあ」
交番を出て、うらぶれた商店街を歩きながら金ちゃんは冗談とも本気ともつかないことを言った。
「そうだな。怪しまれても文句は言えん」
「はは、そうだよねえ」
ズラ子の数歩前を歩いていた金ちゃんが、ふいに足を止めて振り返ったので、ズラ子もそれに倣って歩を止めた。
「ズラ子ちゃんも、俺が逃亡犯じゃないかって思ってる?」
金ちゃんは相変わらず微笑んでいたが、それはほんの少し物憂げなものに変わっていた。
ズラ子はあまり考えることなく、「いいや」と答えた。
「…そっか。何で?」
「根拠はない。ただ、そうは思えん」
それは本音だった。ズラ子には、目の前の素性も名前も知らぬ明らかに怪しい男が、どうしても悪人には思えなかった。
ただの勘でしかないのだが、そういった嗅覚には優れているという自負があった。
金ちゃんはそれを聞くと呆けたように笑い、「そっかあ」と言って、また歩き始めた。
金ちゃんがズラ子の評価をどう受け止めたのかはわからない。しかしそんなことはどうでもいいことのようにズラ子には思えた。
「…それで、これからどうするんだ?」
商店街を抜け、ズラ子は核心に迫った。これ以上自分にできることはないし、彼もそれをわかっているだろう。
「んー、このへんもうちょっと探してみるよ」
「そうか。荷物が見つかればうちに連絡があるはずだから、携帯の番号を教えておけ」
「ごめん、持ってないんだあ」
予想外の答えに、ズラ子はため息を吐くしかなかった。
「じゃあどうするつもりだ」
「しばらくはこっちにいるから、また店に確認しに行ってもいい?」
「…それは構わんが、無一文でどこに滞在するつもりだ?」
ズラ子は一瞬、このよくわからない男と自宅で共同生活をする想像をした。
想像というより、その場面が脳裏にフラッシュバックのように映し出されたとでも言おうか。
男の答え次第では、それは容易に現実になるだろう。突然知らない男と同居だなんて馬鹿げているが、嫌ではないのが不思議だった。
しかし男は、尚も掴みどころなく笑って、「なんとでもなるよ」と宿を得る機会を放棄した。
「いろいろありがとね」
金ちゃんはポケットに突っこんでいた右手を差し出した。握手を求められているのだと気付くのに、少し時間がかかった。
ズラ子はおずおずと右手を伸ばし、金ちゃんの手を握った。その掌はポケットの中で温められていたはずなのに、ぞっとするほど冷たかった。
手を離すと、金ちゃんは店の方向とは反対方向に歩いて行った。
遠目でもはっきりわかるほどの鮮やかな金髪が、灰色の町で提灯のようにいつまでも浮かんで消えなかった。