「…く」
此の白は何の白だ。己の血か?
白夜叉と謂う名は時に酷く滑稽である。
敵方を血だるまにした後は俺も又、同じ真っ赤な色を着ていると云うのに。
俺が白く在れるのはほんの一刹那。この両眼すら赤光に染まるというに。
白がそのアイデンティティを保てる他の方法としては、傍らに黒を置くことが有った。
反転し、染まる白。或いは黒。相容れることの許されぬ二対の色彩から除外された色彩、二対の俺と君。
対岸に居る筈の俺達は、除外された者同士裏表、背中合わせに二人ひとつで生きていくのさ。
ところで君。俺はいまなにをしていると思う。
背反の俺たちはどちらかが居なくなれば死んで仕舞おう。だから、助けた。射貫かれ赤を流す黒を必死の思いで救った。
「うあああああああああああああ!!!!」
禍々しいまでの、先刻のお前の絶叫が鼓膜に刻まれて、なのに悲哀のひとかけも今の俺は感じていないのは何故だろうな。在る、のは高揚ばかり。
赤く濁った川の中、俺は下半身をいきり立たせて今は床で安静にしているだろうお前のついさっきの如何にも人間らしい生への執着を見せた獣のような姿を
反芻しては息を荒げ自慰を続けている。美しいお前の、醜い姿がこんなにもいとおしい。どんな官能よりも官能らしい。
もう一度もう一度と、癖になる。いつか夜叉がお前を喰ってしまわぬか、心配で仕様のなくて夜の更けるのが常より遅いよ。
戦況は不利。
そんなのはいつものことだった。
名も知らぬ兵が小難しい言葉で要らぬ報告を長々と続けるが、敵方の砲撃やら何やらが邪魔をするせいで音節で区切っているみたいに途切れ途切れだった。
それでも男の声音と表情だけで、今自分たちがどんな悲惨な状況にあるのかいとも容易く分かる。
俺の白装束も泥と人に在らざるものの血で汚れている。きっと今日も数えきれぬほど仲間は死んだのだろう。
いや、こうして見窄らしい塹壕に身を隠しているこの瞬間にもその数字は増えている。
何とも惨めで、空虚な気分だった。俺はひらひらと手を振り、報告を中断させた。
「坂田さん!!」
また違う男が息せき切って此方に駆け寄ってきた。
俺はうんざりとした顔で、報告なら今此奴に、と言いかけたが、小柄な男はそれを遮り、殆ど涙声でこんなことを言った。
「桂さんが…負傷を!!まずいです、出血がひどくて…」
そんな言葉に乗せられた事実を信じ、また受容するには、かなりの労力を必要とした。
桂が戦場で身動きが取れないほど深手を負ったことなど今までになかったのだから、そんな俺の心境も仕方がない。
間違いではないかと問いただしたかったはずなのに、疲弊しきった鉛のように重いはずの身体は勝手に現場に向かっていた。
青ざめた例の小男が俄に前に出て、俺を誘導する。
視覚だけが切り取られたかのように、少しずつ迫る現実が妙に幻影みたく映った。
音と景色の間に、歩を進めるたび着実にずれが生じ始めていた。
負傷者をとりあえず匿った塹壕に足を踏み入れると、ほとんど動くことさえできない屍体と人間の中間地点に在る見知った面々が
思い思いの格好をして、死神を待っていた。少しだけ奥まったところに、桂は数人の医療兵に囲まれて石壁に背を預けていた。
一見すると大したことなどなさそうに思えるのに、ふと足下を見ると黒い血痕が乾いた大地を濡らしていたので俺は一瞬身を捩った。
「坂田さんっ」
俺に気付いた男が仰々しく場を譲る。
そこで初めて視界が開け、細胞の奥深くにまで馴染んでいる桂という人間の現在置かれている相貌が映った。相変わらず音と世界は断絶状態。
忍び込むように、俺の赤いであろう眼に桂の横腹に深々と刺さった短刀が情報として入り込む。
抉られた腹からは夥しいほどの血液がそれ自体に意志があると錯覚するぐらいどくどくと流れていた。
未だそれほど長い時間は経っていないのか、桂は痛みに全身を操られ呻いている。震えているのではなくて、まだよかった。桂はまだ生きていた。
「…しろ…や…しゃ…?」
綺麗な顔を汗だくにしながら、桂は地獄の底から何とか言葉を発した。
「医療兵が足りなくて…俺たちだけでは治療が」
ふがいなさそうに嘆く雑兵の言葉を背景に、そういえば桂こそが医療班の全責任を負っていたのだと思い出した。
その証拠に桂の細腰には必要最低限の医療器具が入った巾着が結わえられている。
俺はかけるべき言葉を見失っていて、ただただ蠢く桂の両の瞳を睨め付けるようにして凝視することしかできなかった。
だけど、わかっていた。俺が此奴を救わねば。桂を生かさなければ。
そう決めた瞬間にやっと、世界は色彩を取り戻し、俺は人間らしくそして同時に彼の竹馬の友らしく反応することができた。
「ヅラ、気張れよ。大丈夫だ、こんなモン犬に噛まれたのと大差ねぇだろ?」
桂は少し笑う素振りを見せたが、実際は不格好に口の周りの筋肉が引き攣っただけだった。激痛は彼から微笑む筋力さえ奪うらしい。
「おい、お前ら。水と布と、何か火起こせるモン持ってこい」
白装束を脱ぎながら至極冷静に周囲に指示を出すと、慌てながら何人かが調達に走っていった。
相変わらずの轟音と、刀が交じり合う音が響く。
いつ此方に敵襲が来るか肝を冷やしながら、とりあえず桂の意味を為さない甲冑を外し、着物を裂いて傷の状態を見た。
脆弱なその刺激にすら桂は死にそうな声を出していたが、気張れと言われたものだから微動だにしない。どこまでも生真面目かつ、従順な奴だ。
「急所には当たってねぇな」
「…ぎん…とき」
「しゃべんなよ」
「おれが…死んだら…あとは頼むぞ…」
消え入りそうな遺言めいた言葉は妙にくっきりと聞こえてきた。そしてそれに憐憫と、果てのない怒りを感じる。
巫山戯るな、死ぬなんて許さねぇ。俺をこんな地獄に置いていくなど断じて認めない。お前に先に楽な思いをさせてたまるものか。
お前は生に執着して、這いつくばりながら辛酸を糧に俺とじっくりこの世界を享受するんだよ。
とは言わず、「お前は殺しても死なねぇよ」と至極この状況に相応しい言葉を贈った。
脱いだ着物を胴体にきつく巻き付け止血を施し、それから数人に桂の身体を押さえさせた。何だかこれから輪姦でもおっぱじめるみたいだ。
俺は自分の鉢巻を解いて、桂に轡をした。ますます官能的な情景である。不意に桂を犯すときのことを思い出した。
此奴は何時も平静を装おうとするが、俺はそれを良しとしない。
自分が同郷の盟友に滅茶苦茶に犯されるというのにそれを何でもないようなことに捉えるのは今一そそらないのだ。
泣いて暴れて理不尽さに憎しみを露わにする瞬間を、いつだって俺は待っている。その時こそが鬼の欲を満たす唯一無二の刹那なのである。
「ぐ…ううううぅぅっ!!!」
渾身の力で以て俺は鋭利な刃物を抜きにかかる。
細身の体躯の何処に潜んでいるのか、男三人の力で押さえ込んでいても間に合わぬ程の怪力で桂は本能のままに痛みを避けようと藻掻き暴れた。
「おい、しっかり押さえてろ!骨のひとつぐらい折っても構うな!」
どうにか内臓を傷つけないよう真っ直ぐに短刀を引き抜く。
鈍色の刀身に桂を形成する繊維や血や肉が絡みついてきて、まるで抜かれるのを嫌がっているようだ。
辛うじて全てを抜き取ると、すぐさま医療袋にあった薬草で傷口の消毒をした。
その頃には清潔な水も揃っていたので、合わせて傷口にかけてやった。桂は際限なく様々な種類の痛みにくぐもった苦悶の声を上げ続けていた。
「う、うぅぅー!!んんぅうぅっっー!!うぅ…っ」
激しく上下する桂の生白い腹が、必然的に情事を彷彿とさせる。
不謹慎なことはわかっていたが、俺はやはり反芻していた。
腕を大木に拘束して、石を口に詰めて、腰から下を何の配慮もなく一番挿入しやすい体位に変えて、思う存分欲を打ち付けたことを。
あの時とそっくりな声で、動きで、それでも俺を受容する。
こんなに酷い仕打ちをしているのに、桂はどうして俺を殺さないんだろう?
そこまでして、俺を殺戮の看板役者に仕立て上げたいのだろうか。残酷なのはどっちだろう。
「桂さんっ…!ごめんなさい…耐えてください…!」
彼を慕っている兵たちはやりきれなさに落涙しながら必死に自らの腕に負荷を掛けている。
脂汗と泥と土と血に塗れながらも矢張り桂は美しい顔をしていた。
本当に美しいものはどんな汚濁に身を落としても燦然としているものなのだなと意識の末端で再認識した。
俺は例の宝の袋から針と糸を取り出し、マッチで針を炙った。
裁縫に使うための其れは、手術に使うには何とも不格好である。だがないよりは幾分もマシだ。
もう一度傷口を消毒し、布で血を拭った。止血帯に使った俺の羽織は、もうきっと二度と赤が落ちないだろう。桂の赤が。
「…ヅラぁ、耐えろよ」
医療班の桂には、麻酔なしの縫合がどれほどの苦痛を伴うのかが誰よりもわかっているはずだろう。焦点の定まらない瞳が少し恐怖していた。
雫が顎から垂れて、いつのまにか俺もたっぷりと汗をかいていたことに初めて気付いた。
針を握る俺の手は震えていた。しかしその原因は緊張から来るだけのものではなかった。
嗚呼今正に俺のこの血塗られた両の手が、桂という鉄塔のような信念の塊の生命を握っているのだ!
どう足掻いても所有することの叶わぬ桂を、暫時でも所有している。焦がれたことがこんなにも簡単に実現してしまうとは驚いた。
如何に桂の身体に俺という身体を刻みつけてもその魂の一握りも貰い受けることのできなかった俺が、倫理的に不都合なく桂を所有し、全てを握っている。
恍惚とするのを辞さない心は跳ね馬のように躍動する。どくんどくんと心臓が脈を速め、どうしようもないほどに欲情した。
できることなら今、桂を犯してしまいたい。そうすることで今度こそ完璧に、俺とお前はひとつになれるとそんな気がする。
しかしながらそれでも。俺はお前を生かすよ。
お前と一緒に生きたいんだよ。この先の全てをお前と戦い抜きたいんだよ。
それは俺のエゴであることに違いはないけれど、先のエゴよりも随分と人道的だと自負する。
どうだ、今のは何とも感動的な愛の言葉だろう?
「押さえろ」
動かなかった俺を心配そうに見つめていた雑魚どもに合図を送り、俺は桂の裂傷に糸を通した針を差し入れた。途端、絶叫が耳を劈く。
「うぐあああああああっ!!!あああああぁあ!!」
あまりにも喚き散らした所為で轡は外れてしまった。聞くに耐えない絶叫が木霊し、耳をびりびりと振動させる。
だというのに俺の神経は研ぎたての愛刀のように澄んでいて、寸分の誤差もなく皮膚と皮膚を縫い合わせていく。
桂の獣じみた叫びをこの時初めて聞いた。
何時でもどこか冷めていて、国のためなら命も辞さぬといとも容易くその高貴な生命を天秤にかけるこの男が、痛みに悲鳴を上げ同時に死がもたらす苦悶に脅えている。
今まで見たどんな姿よりも人間臭かった。命が踊っている。しかも俺の手の中で。何と言う僥倖か!
「ああああぁっ、うあぁああ!!いや、いやいやいや、いやだあああ」
永遠に続きそうな苦痛に身を焼かれて桂は譫言を叫んだ。そうだ思い知れ、これが死の苦痛だ。
お前は直ぐに命を賭けようとするけれど、楽に死ねるなんて甘えたことを考えるな。代償はいつもどんなものにだって伴う。
疑う余地もなく俺はいつになく興奮していた。腰のあたりがぐらぐら煮え始め、こぼれ落ちた火が雄の象徴に引火する。眩暈がする。
これが如何に不謹慎で非人道的かということぐらいはわかっているが、止められない。
俺は目の前に横たわる屍に限りなく近い旧友にそこはかとなく欲情していた。
最後の一縫いを終えた頃には、桂は顔中に脂汗を滲ませ、虚空を見て撓垂れていた。
だが呼吸は安定している。細い首筋にてらてらと汗が光って扇情的だった。
俺は他の兵を押し切り、桂を横抱きにして陣地に向かった。
丁度その時に高杉か誰かが撤退の合図を出した。暫く歩くと、桂が意識を取り戻し、何かを小さい声で呟いた。
「…ん、とき」
「無駄口叩くんじゃねぇよ、寝とけ」
「…貴様が、救ってくれたのか…」
桂の声にはいつもの覇気はなかったが、しっかりとした芯が通っていて、回復の兆しを思わせた。
砂利を踏み踏み、障害物を避けながら俺はその問いには答えずにひたすら歩いた。
「…すまない、ありがとう」
「礼は甘味1年分でいいぜ」
「…善処する…」
嗚呼可哀想な桂。どうしてそんな風に心から嬉しそうな、安堵しきった声を出すんだろう。
それはきっと俺が何を思ってお前を死の淵から救ったかを知らぬからだ。それでいい。一生知らぬままでいい。
俺の記憶の一番深いところに、獣のようなお前の姿を留めておくから。誰にも覗かせはしない、お前にすら。
俺はどうやら、鬼と人の面を自在に使いこなせるまでに成長したらしい。
桂を床に伏せさせた後、他の負傷者の介護もそこそこに俺は獣道を走っていた。
甲冑が軋む。血を存分に吸った着物が擦れ合う音がする。
無我夢中で辿り着いた深い森の中で、俺は下帯を無造作に解き、猛った浅ましい欲を解放させた。
反芻するのは、先の桂の醜い姿。耳に木霊する、生を貪り大気を劈くあの叫び。
見たことのないほどに醜く、しかし同時に何よりも官能的な、桂の。
お前がこんな俺を知ったらどうするかな。今度こそ呆れ返って、俺を見限るかな。だって俺はお前に嘘を吐いたんだ。
あの時確かに、俺はお前を殺めたいと切望していた。なのに動く手はその命を紡ぐ、その矛盾、それすらも背筋をぞくりと震わせた。
鬼になんてなりたくなかった。だけどもう戻れないんだ。共に生きることだけが幸せだったあの温かな凪いだ日々は消失した。
お前を抱いた感触よりも、お前の皮膚を縫った感触の方がいとおしいなんて、その手で自慰をすることに対して恍惚とするなんて、どうしようもない。
明日が来ることが、とんでもなく怖い。
もう、視界も血で汚れてお前すらよく見えないよ、桂。