暁の覚醒とともに感じる生暖かい人肌の温もりは、随分昔に忘れたと思っていた
。
与える体温ではなく享受する体温は、存外な懐かしさを連れてきて今も桂の
透き通るような肌の表面をさらさら流れている。
ごお、という轟音が頭上を覆う。もうすっかり見慣れた(忌々しいことだ)
天人のばかにでかい航空機が青いはずの空をそうでないものに変えていく。
常ならば舌打ちのひとつでもするところだが、生憎今の桂にその余裕はなかった。
6月の湿った風が気ままに吹いて桂の長い髪はその度膨らんでゆるりと流れて元の
位置に収まった。かぶき町の堅い風がよく感じられる一番の場所は、皮肉にも
ターミナルのよく見渡せる廃ビルの屋上である。張り巡らされるフェンス濾しに
見ても、ターミナルの巨大さも何も変わらない、きっと今この瞬間にも大量の天人が
地球に我がもの顔で出入りしているのだろう。
党首らしからぬことだが、そんな話は全く自分に関係のないことのように思えて
仕方がない、桂は派手にため息を吐く。
晴れていた。陽光の眩しさだけは太古から変わらない気がしていたが、そんな
持論すらうち砕かれそうなほど、身体も頭も不安定である。
(何を、)
(何を、動揺することがある?)
ざわついている原因が明白すぎて可笑しくなる。そして同時に答えのわかっている
疑問が脳裏を掠める。
抱かれたから何だ?
戦の頃は連日のことだったんだ、さして問題にもなるまい。酔った勢いでつい、
ただそれだけ。お互い水に流してまた昨日以前に戻ればいいだけのことではないか。
そこまで一気に思考を巡らせて、深呼吸。初夏の臭いが鼻をついた(嫌い、じゃない)
理屈で分かっていても、桂はここまで逃げてきた。朝起きて襲われた、腰を中心に
した鈍い身体の重みと特有のけだるさを、桂はよく識っていた。
隣で眠る白髪頭の顔を見ることもままならず、ざくざくと音を立て収縮を繰り返す
忌まわしい心の臓を抱えて桂は自宅を抜け出した。宛てなどなかった。
明らかに、怖かった。何かは知らない。
また風が吹いた。何度目かの飛行音も響いた。
何も考えたくないのに、己のとは違う仄かな体温がまとわりついて離れない、
そうして質の悪いことに妙に居心地がいいのだ。
「昔、人間はふたつでひとつだったらしいぜ」
太陽人と地球人と月人がいてよぉ、何でも太陽は男と男、地球は女と女、月は男
と女で成り立ってたって。でも神サンがそいつらを稲妻でまっぷたつにしちまって、
そっから人間はみんな自分の片割れを捜してるんだってよ。
唐突な、何の脈絡もない過去の断片が浮かんだ。柄にもないことを云われたから、
覚えていた。ちょうど、夏の始まり。そして同じように風が吹いて、桂の思考は
舞い戻る。
(…)
(女々しい)
フェンスを握ると、安っぽい金属が擦れ合う音がした。
そのまま額を、六角形の穴が開いた金属の壁に預けて、瞼を閉じる。
聞こえるのは遠い遠い音。遠い雑踏、遠い人間の生活の音。どこか幻想的な感覚に
陥る。
不意に、何か違う物音が耳に混ざった。
近く、いやもっと遠く?
「陰気くせぇところだな、オイ」
来訪に驚けない自分に違和感を覚えながら、桂は其の聞き慣れた癖のある声を背中越
しに感じた。
ああ、また轟音。ひどく耳障りだ。
「…銀時」
「んあ」
「どうしてこんなところに居る?」
振り向かずにそう問う。「ああ」短い間隔で間の抜けた返事が聞こえた。
「起きたらお前がいなかったから、部下っぽいにーちゃんに聞いたらターミナル
の方に向かって歩いてったっていうから、ふらふら探してたら見つけた」
お前のヅラは目立つからね。云いながら、ゆっくりと歩を此方に向けて進める、気配
がする。
「それ以上、近づいてくれるな」
咄嗟に出た桂の言葉に、銀時の足音が途絶えた。
「なーんで」
「壊れるぞ」
「…何が」
「俺達が」
そう云う桂の声は震えるべきなのだろうが、其れはコンクリートと風とフェンスしか
存在しない屋上にいやに凛と鐘の音が如く響く。
六角形の穴の向こうの世界を見据えながら、桂は遠い言葉の続きを思い出そうとする。
あの後、奴は何と云ったのか。其れを聞いたとき感じた拭えない違和感が、戦など
とうに終わった今になって、こんなきな臭い場所で再び桂を戒める。
足音が今度は少し早く響いた、と気づく刹那にかしゃん、と小気味いい音がして、
視界にフェンスを握った自分の手の代わりに無骨で大きな手が映った。
「壊せばいーじゃん」
「粉々に、跡形もねーぐらい」
そんでもっかい新しく始めればいいじゃん、それで万事オッケーじゃね?
余りにも飄々と、銀時は云う。不思議な気分だ、と桂は思った。
銀時がそう云うと、自分が憂いていたことが空気の塵ほどにちっぽけなものだっ
たように思えてくる。ひどく明確な答えを突きつけられたようだ。
そして、それが全てで構わなかった。
「…抽象的すぎるな、お前にしては」
「噛み砕く?」
「ああ、頼む」
ともすれば犯されているような妙な体勢は維持された儘、桂は答えを待ち、答えを
出す。
感じるのはもう、背から伝う銀時の温い温度だけで。
世界が崩れるのを感じた。
俺の片割れは、お前だったかもなぁ。
沈黙の隙に思い出した言葉はいやに陳腐で、それでも脳の片隅に綺麗な思い出と
して残されているのだから、俺も大概重症だ。桂は自然に顔が綻ぶのを感じた。
「ちゃんと、始めからやり直さない?」
友達を、じゃなくて。もっとこう…違うもの。
あの時より口下手になっているな、と桂は薄く微笑んだ。
そしてやっと、ビルの建ち並ぶ世界に背を向ける。桂の視界には、ばつの悪そうな
顔をした銀色の侍しかもういない。
「地球人」
「は?」
「これで俺達は地球人だ」
「…殴ってもいい?」
風が舞う。音を立てて壊れた世界が静かに再構築されていくのを、桂は甘い体温の
中で確かに感じた。
銀桂は不滅です。酒と旧友と対な感じ。
ちなみにタイトルと地球人とかのお話は、とある映画の劇中歌から。