少女は唐突にあの花何アルか?と指さし、云った。
庭先の垣根に一房だけ残っている赤い其れは、先日の気まぐれな豪雨で仲間を全て失った椿の花だった。
「あれか、あれは椿だ」
「つばき?」
「そうだ、リーダー見たことはないか?」
その問いに少女は答えることなく、用意した饅頭を頬張ることも忘れて今まで 座っていた縁側からぴょいと跳ね起きた。
俺はとりあえず緑茶を啜った。
軽やかに、野兎のようにその花のもとへ導かれるように向かう。
俺は湯呑みを脇に置いて、ゆっくりと立ち上がって彼女の元へ歩んだ。
彼女の保護者の白髪頭は、ジャンプを目隠しにして居間で寝こけている(怠惰な )。
眼鏡の少年は、おじゃましちゃってますし、夕飯は僕が作りますよといっていい というのも聞かず律儀に買い出しに出てくれている。
代わりにこうして、少女の相手 を頼まれたというわけだが。
そして緋色の髪をした色の白い少女は、彼女の服の色より少しだけ淡い今にも朽 ち果てそうな花をじっと見つめている。
「ずいぶんしおれちゃってるネ」
「ああ、この前殆ど雨で落ちてしまったんだ。地面に沢山散らばっているだろう ?」
垣根の下には、零に等しい命の断片を必死に散りばめようと其の朱を未だ光らせ ている房や花弁が無数に横たわっている。
少女の表情は窺えないが、それらを見て何 を思うかは少しだけ検討がつく。
「この花…」
「ん?」
「何となく、マミーに似てるアル」
検討外れもいいところだった。花の命の儚さを憂いているのだろうなどと思った
が、彼が憂うのは母親の其れであったのだ。
いつもの快活すぎるぐらいの年頃の娘は今は椿の前に成りを潜めている。思えば
この娘がこんな風にして家族のことを話すのは初めてだった。
何となしに母親が亡くなっていることは聞いていたが、まるで今の家が彼女の本
来の場所のように感じてしまっており、普段は全く意識していなかった。
「リーダー、」
一陣南西から風が拭き、葉が擦れた音を立ててしまうと彼女が母親を見たその椿
も、ぽとりと地面に落ちてしまった。
その様はひどく優雅で、まるで映像を遅く再生して見ているかのようで、 それが逆に哀愁を感じさせた。
嗚呼、悲しむかな。そう不意に感じると胸が締め付けられて苦しくなった。
相も変わらずこの位置からでは目立つのは少女の細い項ぐらいのもので、きっと
次ぎに振り向くときはいつもの明るい笑顔に戻っているのだろう。
哀しげな顔を見ずに済む方法なら幾らでもあるが、そんなものは意味のないことに思える。
俺が見ていなくてもこの娘は確かにかなしんでいるのだから。
 落ちてまだ数秒しか経っていない、綺麗な儘の椿を崩れないようにそっと持ち
上げる。少女は俺のその所作に気づいて。顔を此方に向けた、気配がした。
椿を元在った緑の敷物の上に乗せなおす。いびつだが、頭の飾りみたいで可愛らしい、 と思いたい。
「俺も、椿によく似た人を知っていたよ」
「ホント?ヅラのマミーアルか?」
いや、と首を振る。「俺たちの先生だ」
その言葉は何故か酷く遠いところで聞こえた。
あの人は気高くて美しくて、それでいて繊細で本当にこの花のようだった、など
と思えるようになってしまった俺は年を取りすぎたのだろうか?
否、もしかすれば思いこんでいるだけやもしれんな、そうして椿から視線を逸らして
居間で阿呆のように寝こけている旧友を見た。(旧友と呼ぶには、遅すぎたか)
「みんな、同じネ」
「…そうだな」
そう、気づけば今日此の家に集まった者は皆似ているのである。
誰もが誰かを亡くして、誰もが何かに死者を視る。違う視点を追いながら隣の
人間の肩に頭を預けて、幸せであろうとする。
だがそれは恐らくこの世の大方の人間がそうであって然るべきで、考え方に
よれば人間なぞ皆同じなのだ。勿論幕府に媚びへつらうような人間もいるが。
(少なくとも今隣にいる少女に、俺の肩ぐらいは貸してやれる)
「来年、暖かくなったらまた椿が咲くよ」
「うん、またヅラの家に銀ちゃんたちと見に来るアル」
何気ない約束に微笑して、楽しみにしてるよ、とお団子頭に手を乗せた。
「ヅラぁ」
「ヅラじゃない桂だ、何だリーダー」
「ヅラも、つばきに似てるヨ」
何となくだけどナ、そう言って少女はまたいつもどおり元気に駆けだして、
ふぬけな父親代わりを起こしに居間へ入った。

ふたりのぎゃあぎゃあと喚く声を遠くに聞きながら、俺は顔が自然に綻ぶのを 久々に感じた。
どうしてなんだろうな、言葉ひとつでこんな風になれるのは。
また同じ風が吹いて、葉の音色も同じであったが、椿は落ちなかった。
その代わり少し揺れて、少女の母親が笑っているようだった。
「…やはり、此処は壊せぬな」
二度も母親を失わせるのは気が引ける、などと冗談めかして心中で呟き、
何やってんだヅラァ晩飯抜くぞぉ、と俺を呼ぶ彼らのもとへ戻った。
いつも通り、ヅラじゃない桂だと訂正しながら。

 
椿がまた、笑った気がした。振り向くことはしなかった。

神楽たそはヅラにマミーを重ねているといいんだ。早くヅラは嫁に行けばいいんだ。