とれいんすぽってぃんぐぅ〜





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彼は息を殺していた。
端正なその顔に長い漆黒の髪が垂れて翳りを作って、そしてそれは彼のどこか神秘的な美しさを際だたせている。
四角い、個性的なクラスメイトたちの喧噪が響き渡る教室には、余りにも似つかわしくない類の美を、彼は細い躯に背負っていた。

「次、ヅラ小太郎」

担任教師の気怠そうな声が彼の名を呼んだその瞬間に、桂の貌からはすらりと翳りは引け、代わりに年相応の青々とした瑞々しさが彼を覆った。

「ヅラじゃありません桂です、先生」
「早く取りに来ねーと点数暴露すっぞー。つっても、知られても一向に構わねぇ点数だけどな、つまんねー」

教師の手中から意図的にちらつかされている国語の中間試験の点数は、95点。
おおっ、と他クラスに比べて平均点の低いZ組の面々はずば抜けて高いその点数に驚嘆の声を上げた。
「すげーアル、ヅラァ!さすが私の弟子ネ!」
教卓へ向かおうと立ち上がる桂に、前の席の留学生である神楽が満面の笑みを向ける。
神楽とは男女混合の選択体育の授業で同じ班になってからというもの、妙な師弟関係となってしまった。そんな神楽に、ありがとうリーダー、と妹を見るように
微笑みかける桂を、他のクラスメイトたちも羨望の眼差しで見上げている。

「ったくよー、逆に一体何を間違えたんですかコノヤロー」
「問3の【1】傍線部の部分は具体的に何を指すか答えなさ」
「真面目に答えなくていいからっ!何この子、頭いいの悪いの!?」

そんな二人のやりとりに起きる笑い声。勉強は出来ても少し抜けている、どこか憎めない桂の態度にはZ組の面々は劣等感など沸き上がらないようだ。

「桂ァ、勉強のときにそのタダでさえうっとーしいロン毛はもっとうっとーしい
んじゃねぇですかぃ。切ってやりましょーか?」
桂がテストを受け取って席へ戻るときに、ふたつ前の席の沖田がそんな野次を飛ばした。担任は淡々と名簿通りに名前を呼び、そこはかとなく悪い点数に
打ちひしがれて見せる素振りをし続けている。

「うちの風紀副委員長殿が、是非その麗しい御髪をお切りしたいそうですぜィ」
「総悟てめぇ、勝手なこと言うんじゃねぇ」

少年らしいあどけない笑顔で冗談を飛ばす沖田に、教室の端から眼光の一際鋭い土方が一喝する。それを聞いて豪快に笑うのは風紀委員長の近藤だ。

「勉強のときは髪を結っているのでな、別に切ってもらわなくて大丈夫だ」

桂は微笑を携えて彼らの悪い冗談をかわした。しかし、瞳にはひやりとした侮蔑の色が浮かんでいた。

 サル共が。

心中に浮かんだ言葉を呑み込んで着席するのにも、始めは随分苦労がいったが、今は慣れた。
死んだ目をした教師はもう、すっかり全員にテストを返却し終えてしまっていた。






帰宅すると、いつものように家はしんと静まりかえって死んでいるようだった。
小さいながらも会社経営が順調な父が、そこそこに大きなマイホームを建てたのがもう6年前。しかし、桂はこの家が嫌いだった。理由など特にはない。
ただ、灯油を撒いて火を点けてしまいたいという乱暴な衝動に駆られることは、少なくなかった。
リビングへ入ると、必要以上に大きな食卓机にぽつんとラップをかけられた夕飯が置いてあった。
母親は小遣い稼ぎにパートをしている。父とそのことで随分揉めたようだったが、桂には母親が何処で働こうがそのことで両親が険悪になろうが、
まるで興味のないことだった。
それにしても最近、パートにしては明らかに母の帰宅時間が遅い。父は殆ど家に帰らないので、その事実を知る由もないのだが。
 イタリア製だというソファに乱暴に学生鞄を放り投げ、同じように自身の痩身をも放り投げた。皮の冷たい臭いがする。頭が痛くなり始めた。

「…くだらないな…」

呟いてみるが、其処にも特に意味や明確な対象はない。ただ、広がる虚無感。
この部屋が広すぎる所為なのか、この部屋が薄暗い所為なのか。こんな深い穴に落とされたような気分に陥るのにさえ、もう慣れてしまったけれど。
浮かぶのはクラスメイトたちの馬鹿な顔、いかにも愉しそうな笑い声、堪えきれないあの空気。
特に目的もなく入った高校での生活は、予想以上にひどいものだった。
一時は進学校と謳われたらしいこの高校も、今ではすっかり落ち目となり、中でもあのZ組は何故か落ち零ればかりの寄せ集めで、おまけに担任がアレだ。
フルネームは坂田銀八、とかいったか?あの面倒くさそうな授業態度でよくクビにならないな、と桂は彼の現代文と古文の授業を聞くたびにそう思っていた。
しかし、桂は彼にもまた興味はなかった。勿論、妙にいちゃもんをつけてくる風紀委員たちにも。

  不意に、鞄の中で携帯電話のバイブが震えた。バイブの長さからして電話らしい。
取り出して表示画面を見ると、「高杉晋助」と無機質な光がそう告げている。

「はい」
『ヅラァ、今から暇か?』
「ヅラじゃない桂だ …ああ、大丈夫だ」
『じゃあいつものとこでな』

ふつりと電話が切れ、ツーツーという音が耳を射す。
桂は電話を切ると、ゴミ袋に皿の上の料理を突っ込み、空になった皿をきちんと重ねて洗い場に置いた。
制服を脱いで薄いカットソーとジーンズに着替えてから、夕飯の入ったゴミ袋と荷物を抱えて家を出た。
家から少し離れた公園のゴミ箱に手つかずの夕飯を捨てたあと、携帯を開いて母親に、
『夕飯おいしかったよ。塾に行って来ます』としっかりメールを送っておいた。




地下鉄を乗り継いで桂が降り立ったのは、ごみごみとした繁華街から少し隔離された薄暗く淀んだ界隈であった。
どこか埃っぽく陰惨としていて、逃げ場のない袋小路のような其処は、あまり関わり合いになるべきでない組織の人間や夜の世界の男女が生きる世界として
あまりにも有名である。
 そんな所に一端の真面目な高校生である筈の桂は、何の戸惑いもなく手慣れた様子で細い路地へ歩を進める。
派手なシャツやスーツに身を纏った人々ばかりの空間で、桂の潔白ささえ伺わせる若い姿は異質であった。
自宅からこの街へ来る間に、すっかり薄暗くなってしまった。俄に活気づき始めた夜の街を人を縫い縫い進んでいき、暫くすると寂れた喫茶店が目に入る。
桂は其処で足を止め、店内へ入った。

「よぉ、ヅラ。早かったな」

申し訳程度のカウンターと3席ほどのテーブル席には、客は煙草を吹かしている雀眼の青年といかにもといった風体の強面の中年男性2人しかいなかった。
ヅラじゃない桂だ、と言い返しつつ彼の座っている隅の席へ向かい、腰を下ろした。

「今日はお仲間はいないのか」
「ああ、岡田たちか。今日はいねぇ。あいつらにゃ勿体ない上物が手に入ったんでな」

くつくつと不敵に笑うその青年の風貌は、桂のそれとは全く違っていた。はだけた黒光りするシャツの隙間からはシルバーアクセサリーがじゃらじゃらと不協和
音を立てて、鎖骨のあたりに彫り込んだというタトゥーも見え隠れしている。何より包帯で隠された片目が妙に威圧的で、
細い身体の割に青年にはそれ相応の貫禄が見受けられた。

「今日は報酬も弾んでやらぁ。気分がいいんでな」
「それより貴様、そろそろ出席日数がまずいのではないか」
「んだよてめぇは、保護者みてぇなこと言うんじゃねぇ」
「俺がどんな苦労をして貴様を高校に入れてやったと思っておる」
「それだって俺の母親に金積まれたからやっただけだろうが」

彼―高杉晋助とは桂が今の家に引っ越してきたときから近所付き合いのある所謂腐れ縁というやつだった。高杉は中学時代から既に荒れていたが、
妙に桂とはウマが合うようでたまにつるんでいた。受ける高校が見つからない高杉を何とかしてやってくれと、彼の母親が唯一の真面目な友達だと
認識していた桂に謝礼を積んで泣きついたので、桂と高杉は同じ高校に通う羽目になったのだった。
高杉の両親は、好青年である桂と同じ学校に通っているというだけですっかり安心してしまっている。

「大丈夫だろ、担任の坂田?だっけ、あいつまだ何にも連絡寄越してこねぇし」
「…あの教師はまるで駄目だ。面倒くさがって連絡してこんのだろう、宛てにしない方がいい」

桂の脳裏にあのふ抜けた教師の顔が浮かんで、教室で感じた苛立ちも同時に浮かび上がってきた。
だからといって高杉が自分を理解してくれている親友だなどとは微塵も思ったことはない。確かに普通の生活からは逸脱しているが、だからといって
こんな自堕落な人間に何の憧憬も浮かばない。むしろ優越を感ずるくらいである。
桂にとって高杉との関係は、単に利害の一致で契約されただけのものだった。利用できるものは利用しておきたい、ただそれだけだった。

「でもあいつ、随分人気者みたいじゃねぇか」
「頭の悪い人間は頭の悪い人間に好かれやすいものだ」

桂は目の前のグラスの水を飲み、立ち上がった。「もういいだろ、行くぞ」そう言うと高杉は大人しく立ち上がり、小綺麗なヴィトンの折り畳み財布から勘定を
万札で支払った。





「先払い。口止め料も込めといてやるよ」

例の財布から取り出された数枚の札を受け取り、桂は雑居ビルの路地裏の入り口付近へ移動して腰掛けた。
丁度通行人からは桂が死角になって高杉が上物のクスリを吸い込んでいる姿は見えない。元来人通りの少ない場所を選んでいるのであまり意味があるとは思えないが、
高杉とその仲間の見張り番を桂が買って出たのは高校に入る前の春休みのことで、それもやはり報酬が目的だった。

「お前もやるか?特別に分けてやるぜ」

1メートルほど離れた場所から高杉が葉巻に白い魔法の粉を巻きながら抑えた声でそう言うが、桂は鼻で嗤って首を横に振った。
桂は麻薬はおろか、飲酒や喫煙もしなかった。性分が生真面目な所為だろうか、どうしてもそういった類のことに興味は湧かなかった。
 高杉はそれきり口を噤んで、良質な麻薬を存分に楽しみはじめた。桂は形式上ではあるが路地の外に視線を泳がせた。
こんな不気味な旧ビルが寄せ集まった箇所に、昼でもないのに誰か来る筈もない。時折遠くで車の音が聞こえてくるだけだ。
しかし桂はこういった、全く何もせず暇を持て余す時間が嫌いではなかった。
頭を空にして、ただ無になる。初夏の風が肌にさらりと流れ、この儘空気に紛れて死んでもおかしくはない、とこっそり思った。



どれくらいの間そうしていただろう。流石に時間が経ちすぎた、と気づいて携帯を開くと、もう此処に来てから40分近く経過していた。

「おい高杉、まだ___」

桂が振り返ったその先に、先程までの傲慢とも取れる大きな態度の高杉はいなかった。
いるのは震えながら蹲って、何事か呟き続けている細身の弱々しいただの子供である。

「高杉、おまえどうしたんだ」

近寄って肩を揺さぶりそう問うが、返ってくるのは意味をなさないうめき声だけだった。顔を見ると死人のように蒼白で、脂汗が流れ出ている。
手や足ががくがくと震え、尋常ではない様子だ。
「高杉!しっかりせんか!」
平手を喰らわせても高杉の片方の瞳は焦点を合わせず彷徨っている。今までにない事態に、桂も混乱し始めた。
一体どういうことだ、どうすればいい?こんなことになるなんて聞いていない。ああ畜生、何でこんな金稼ぎ始めたんだろう!

「きゅ…」

不意に、高杉の青紫に変色した唇が何らかの言葉を象った。
「え?」
高杉は震えながら必死に訴える。きゅう、きゅう、しゃ。
しかし、桂は首を横に振った。そんなこと駄目だ。出来るはずがない。その文字を見た途端に、急に桂の心臓は収縮を繰り返し始めた。
脳裏に最悪の事態が浮かぶ。警察に連行され、親にバレて、学校を退学になって、世間から後ろ指をさされる。昔の友達や親戚や近所の人や学校中の人に。
いやだ。俺は、高杉みたいになりたくない。

「無理だ、高杉。お前、そんなことしたらどうなると思う」

尚も死にそうな顔で震え続ける高杉は、遂に息の仕方を忘れてしまったかのような不器用な呼吸を始めた。心拍数も跳ね上がっているのがわかる。
本当に死んでしまうんじゃないか、もし此奴が死んだらどうやって言い訳したらいいんだ、どうしようどうしよう_「おい!高杉!高杉!!」呼び続けても一向に容態は変わ
らない。寧ろどんどん悪化していく。
 もう終わりなのか、俺_そんなことを思ったときだった。

かつん、かつんと、確かに響く足音。どうやら誰か、どこかのビルの階段を降りてきているようだ。桂は藁にも縋る思いで立ち上がり、路地を抜けてその音のす
る方へ走った。

「すいません!助けてください!」

情けない掠れ声で、桂は意外と近くにいたその人影に向かって懇願した。街灯の逆光で顔は見えないが、若い男のようだ。こんな時間にこんな場所から出てくる
人間は恐らく堅気ではない。もしかしたら危険かもしれない。しかし高杉に死なれるよりは幾分マシだ、と桂は必死に助けを求めた。

「友達が、死にそうで…とにかく、こっちへ来てください!」

男は当惑しているようだったが、桂の切羽詰まった様子に状況を理解したのか後を付いてきた。
 路地裏に入ると、高杉は地面に倒れ込んでいた。口からは絶えず獣のようなうめき声が漏れている。

「何、やったの。LSD?アイス?それともシャブ?」

男は高杉の傍まで来てしゃがみこみ、初めて言葉を発した。その気怠げな声は冷静そのもので、桂の動揺を少し沈めた。
桂は男の後頭部に向かって落ち着きを取り戻した声で応える。

「俺にはよくわかんないです…」
「紙みたいの飲んでた?それか静脈注射だった?」
「葉巻…でした」

ふぅん、と男は溜息を吐き、「救急車呼んだの?」

そう言って、桂の方を振り返った。


「______っ」


桂は、息を呑んだ。薄暗がりではあるが、自分の目に間違いはない。
混乱していて微塵も気づかなかった。こんな白髪頭、そうそういるもんじゃないのに。
この怠そうな喋り方、つい何時間か前に耳にしたのに。

高杉を抱きかかえて此方を見つめているその男は、坂田銀八。
疑う余地もなく桂の、担任教師だった。








いかれた高杉はぁはぁ
ヅラが黒くてすいません