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ネオンが、妙に眩しい。
後部座席ではブランケットにくるまった高杉が、ようやく落ち着いた状態で眠りについている。いや、意識が飛んでいるのかもしれない。
どちらにしても、桂にはどうでもいいことであった。

  あの後__男は、いや銀八は、桂に金を持たせ近くのコンビニへ牛乳とグレープフルーツジュースを数本買ってくるように命じた。
桂は大人しく従うしかなかった。
一番近くのコンビニへは走って5分ほどだった。買い物の間、桂の思考はほぼ停止していた。だが、冷や汗と激しい動悸だけは相変わらずだった。
 戻ると高杉は車の中に運ばれていた。銀八は牛乳を無理矢理高杉にパックごと飲ませ(高杉が嫌がって大部分零れてしまったが)、ほんの少し落ち着いたとこ
ろでグレープフルーツジュースを同じように高杉の咽に流し込んだ。
その間にもクスリ摂ってから何時間くらい経ったんだとか色々なことを質問されたが、よく覚えていない。完全に、上の空だった。
もう桂の脳内に、高杉晋助という友人の存在はなかった。

  煙草を吹かしながら黙々と運転をする担任教師を、桂は一度も見ることができなかった。
唸るエンジン音と窓が開いている所為で聞こえる小綺麗な車体が風を切る音。時折桂の方に流れてくる紫煙。どれもこれも、あまり現実味を帯びていない。
その割に桂の頭は真っ白で、高杉が倒れたときよりもずっとずっと不安と恐怖でいっぱいだった。
銀八は高杉の家の住所を聞いた以外、何も言葉を発さない。
しかし、彼が気づいていないはずがない。高杉は滅多に学校に来ないとはいえ、彼の受け持ちクラスでの一番の問題児だ。
それに、自分も。クラスで一番の成績を、しかもこの男の担当科目で取った。顔を覚えていないなんてあるわけがない。
大体、何故この男がこんなところに、こんな派手な車で現れるんだ?
何もかも納得できない。この男がさっきから何も喋らないのも、何も聞かないのも、咎めないのも。
学校に報告される。家にも。確実だ。もう逃げられない。こんなことなら大人しく救急車を呼べばよかったんだ。
桂は自分と、バッドトリップを起こした高杉を恨んだが既にどうにもならないことだとは、充分に理解していた。

途方もなく長く時間がかかったように思えたが、実際には20分程度で高杉宅と自宅のある住宅街に車は到着した。
 いかにも高性能なナビのおかげで、桂は銀八に詳しい道順を聞かれることもなく、一端の教師が買えるようなものではないはずの銀八の高級車が
高杉の家の近くで完全に停車するまで、微動だにしなかった。
桂が高杉のポケットから鍵を取り出して家のドアを開けると、銀八は手際よく高杉を2階の彼の部屋へ運んだ。家族は寝静まっているようで、起きてくる気配もない。
そしてそれは、高杉も同じようだった。寝かせたベッドの中から聞こえる規則正しい寝息が、彼が安定していることを現していた。

  「今夜は傍にいてやれ。あ、学校には来いよ」

高杉が落ち着いていることを確認してから、銀八はぽそりと、しかし確実に桂にそう告げた。
桂はぎくりとして、下を向いて頷くのがやっとであった。
 ああ、やっぱり気づいていた。
有り得ないとは分かっていても、無意識に一縷の希望を抱いてしまっていたのだろう。
それが絶たれた今、桂は絶望というより寧ろ、明確な結果が出た妙な安堵感のようなものに包まれていた。
 それでも、例の車が控えめなエンジン音を立てて夜を縫って走り去るのを聞き届けた後も、桂は顔を上げることができずに、そのまま夜明けを迎えた。








地獄の日々、というのはこういうことを言うんだろうなと桂は窓の外を見やりながらぼんやりと思った。
あの日から今日で一週間。しかし何か恐ろしいことが起きて然るべきの彼の日常は、驚くほど何の変哲もなく緩やかに今日まで過ぎてきた。
目の前で黒板にかつかつとチョークの音を響かせているその男は、一週間前の夜、別人の姿だったその男は、桂に何の接触もしてこない。
あくまで学級委員長として桂に今まで通り接している、ように見える。
彼が、高杉が麻薬を乱用していて、更にそれに自分が絡んでいることを知っているのは明白だというのに。
しかし高杉は、自分が担任教師に介抱されたことはおろか、トリップしていた数時間の記憶すらないという。
桂は敢えて何も伝えなかった。短絡的な高杉のことだ、何の考えもなしに愚劣な行動をとりかねない。
それに、誰かに伝えてしまえば今度こそ本当に、取り返しのつかない事態になったのだと認識することになる。桂は、それが怖かった。
自分ひとり責任を負うようなかたちを取るのは不当に思うが、こういう問題は誰かと相談して何とかするようなものではない。
 ところが、どうしてだか覚悟していた事態にはならない。翌日にはもう全員に知れ渡っていて、自分は格好のカモになると思っていたのに、
次の日もその次の日もクラスメイトは普段通りだし、他の教員に呼び出されたりもしないし、家族からも特に何もない。
桂はある意味、拍子抜けしてしまった。
だが、それが逆にとんでもない苦痛を桂に与え続けることとなった。ここ数日の間何もなかったからといって、自分は助かったのだという保証はどこにもない。
いつ訪れるか皆目見当もつかないその日を待つのは、闇の中を灯りひとつ持たず手探りで彷徨うようなもので、莫大な不安と恐怖がどの瞬間にも桂に
まとわりついた。
安寧の瞬間などひとときもない。帰宅しても明日のことを思うと胃がぎりぎり締め付けられ脈が異常に速くなり、実際胃液を吐いた夜もあった。
結果のない恐怖。桂はこのまま何も音沙汰がなくても、自分は朽ち果ててしまうんじゃないだろうか、とそんな風に思い始めた。
 とはいえ桂は、ここでうじうじと悩んでいる性分ではない。何とかして打開策を考えようとした結果、やはり一番の謎はあの担任の目的だった。
どうして何も言わないのか。普通に考えれば、桂が想像した通りに動くはずだ。
自分の責任にされるのが嫌なのか?そうだとしても、桂本人に何か持ちかけてくるはずだ。何の見返りもないのに秘密になどするわけがない。

 一体何のために黙っているんだ?

幾ら考えても、わからなかった。

  「ヅラくん」

急に不本意な例のあだ名で、今一番切実に消えて無くなってほしい人間に呼ばれ、桂は大袈裟にびくりと肩を竦ませた。

「何、ボーっとしてんの。俺の話聞いてたぁ?」

いつものように間延びした声で、他の生徒に接する時と寸分違わぬ態度で問われたのに、桂は声帯が壊れたかのように何も返せなかった。
ヅラじゃありません桂です、という常套句さえ言い忘れてしまった。

「…んだよ、何か調子狂うな…ま、いいや。102ページの3行目から、読んで」

  指示されたところはしっかり読めた。声も、いつものように出た。
桂の態度を不思議がっていたクラスメイトたちも、特に気にせずにまた各々の世界に戻っていった。
ろくに授業を聞いている人間は少なく、漫画を読んだり居眠りを始めたりする者ばかりである。
限界だ。
本文を読み終えたあと、桂の裡からそんな言葉が滲み出てきた。
教師は桂の読んだところまでの解説をすべく、黒板に再び何らかの文字を刻み出す。 桂は今日まだ一度もノートを取っていないことにふと気づいた。
異常な心拍数を感じながら桂は遂に沈黙を破る決心をした。手が震える。吐き気もする。こんなことが一秒ずつ、ずっと続いていく。
もうそんな日常は御免だった。
勿論、素直に自分の罪を懺悔するわけではない。もっといい方法があるはずなのだ。
そう、何か、もっといい方法が。

 無機質なチャイム音が頭上から降り注いできた。委員長である桂は、いつもよりも凛とした声音で起立、と号令を掛けた。
自分を叱咤する意味も含めて、必要以上に大きな声を出すと、「そんなに俺の授業終わって嬉しいんですかコノヤロー!マジでヅラ取るぞ!」
と冗談めかして担任は笑った。周囲も笑った。笑わないのは桂だけだった。

  銀八が教室の前の廊下を通り過ぎたのを見計らって、桂は身体を滑らせるようにして教室を出た。授業の終わった他のクラスからも、まばらに生徒たちが出て
き始める。
廊下のどん突きの階段を銀八が降りようかというところで、桂は背後から「先生」と声を掛けた。

「んあ?」

振り返ることすら億劫な様子で、銀八は死んだ目をこちらに向けた。階段を往き来する生徒たちは余暇に身をゆだね愉しそうに笑っている。
桂は自分が生きている世界と彼らの生きている世界は、一見同じに見えて全く違うものであるのだと信じて疑わなかった。

「お話があります。放課後、よろしいですか」
「話ぃ?今すればいんじゃねーの?」
「___この間のことで」

欠伸をしながら心底だるそうに対応していた担任の顔つきが、桂の付け加えた一言で微量だが変化した。色がついた、とでも形容しようか。
確かに銀八はその言葉に反応したのだった。

「…よろしいですか?」
そう桂が尋ねると、銀八はふ、と鼻から抜けるような笑みを漏らし、踵を返して左腕をまた怠そうにひらひら振った。
健康サンダルがぺたぺたと階段を降りていく。
それを見届けたあと、桂は黒い髪を靡かせて永遠に長い廊下を戻っていった。

























国語準備室なる所に、桂は初めて入室した。国語科の職員用の教室は別にあるというのに、銀八は其処を住処としているというのはあまりにも有名な話である。
元はこの狭い忘れ去られたような部屋が国語科の職員室だったのだが、西陽がダイレクトに入り込む上、ただでさえ狭苦しい部屋に職員机を4つも5つも置くとな
ると本当にひしめき合って身動きのとれない状態になってしまうという劣悪な環境に耐えかねて、教員陣が校長に直訴して他の場所に移動となったのだ。
しかし銀八は敢えてそこを拠点としている。誰に迷惑を掛けるという話でもなし、更に意外と人望も厚い銀八を咎める者はいなかった。
それに、校長である寺田は銀八の旧い知り合いか何からしく、何事も大目に見ている部分も少なからずあった。

 5月も後半に入り、長袖では多少蒸し暑くなり始めた頃の強烈な西陽に晒されたその部屋は窓が開いていてもムッとしていて、
灼けるようなオレンジ色も相俟って、どこか幻想的だった。
銀八は物が散乱した机に向かって書類を捲っている。一言も発しない桂に対して、背を向けた儘「話って?」といつものトーンで問うた。
それでも何も言わない桂に溜息を吐き、銀八がくるりと椅子ごと振り返ったその先には、汚い床に頭を付けて、土下座をしている桂がいた。

「…先生…お願いします」

桂は銀八の組まれた足を見つめながら何ともしおらしい涙声でそう言った。

「お願い…お願いですから…高杉を助けてやってください…!」

高杉を救いたい、と念じてみると実際に涙が溢れてきて、桂は自身の演技力を怖いとさえ思った。その完璧さで今までどんな苦境も乗り越えてきた。
どんな時も桂は自分の容姿のことも、周囲の評価も完全に理解してきたのだ。

「俺、何度もあいつを止めようとしたんです…だけど俺じゃ力不足で…ずっと…誰にも相談できなくて…っ…」
我ながらうまい言い訳を思いついた、と桂は内心ほくそ笑んでいた。人間苦境に立たされると、自然にそういった策が講じられるものなのだ。
「お願いです…あいつを止められるのは、先生しかいない…!」
お願いします、と床に頭を突っ伏し、桂は啜り泣いた。ちゃんと涙が眦からぽろぽろ溢れてきた。銀八は黙っている。恐らく当惑しているのだろう、
そのような責任の重い頼みを懇願されて。いける、大丈夫だ。この教師が実は情に脆くて、同僚や生徒の窮地をこれまで何度も救ってきたことも知っている。
きっとこの話を信じ、高杉の更正にも本気になるだろう。桂は泣きながら確信した。
 しかし次の瞬間、桂が予想だにしていない反応が返ってきた。

「ぶ…っ」

銀八はもう堪えきれないといった様子で吹き出し、肩を震わせて笑い始めたのだ。
「あはははははっ」
腹を抱えて笑う担任がそれはそれは薄気味悪くて、桂は混乱しながら顔を上げ、大笑いしている彼を驚愕の瞳で見た。
一体何がおかしいというのか、銀八は未だ笑いが止まらない様子で遂には涙まで拭っていた。その姿に、桂は動揺を隠せなかった。

「…?…あの…」
「は、いや、悪い悪い、ふはっ」

依然として込み上げてくる様子の笑いを堪えながら、銀八はようやく息を整えた。

「ごめんごめん、や、でもさ、そう来たかぁと思って」

どくん、と一度心臓に鉛を落とされたかのような感覚に襲われ、咽が引きつるのを感じた。
先刻までの確信はとうに死に絶え、代わりにざわざわと波のように悪い予感が押し寄せてくる。

「ほんと、桂くんって自分護るの上手いよねー」
「好きだわ、そーゆーの」

銀八は白衣のポケットからくしゃくしゃになった煙草のパッケージを取り出し、火を点けて悠々と吸い始めた。
その臭いは、あの夜助手席で嗅いだそれと同じだった。

  どうしてだ?何で看破された?桂は今までになく混乱し、動揺した。心臓が壊れんばかりに爆音を立てて収縮している。
あの日と同じ、またはそれ以上にひどい感覚に、脂汗がこめかみを流れるのを認めた。

「何の……ことですか」

銀八に跪く格好で、桂は何とか絞り出すように言ったがその声は尋常じゃなく掠れていて、真実を誤魔化し抜くにはあまりに不適切であった。

「俺は…本当に高杉を助けたくて」
「じゃあさぁ」

煙を長く吐き出しながら、銀八はにたにた顔でそう言った。

「助けてあげるから、他の先生とかカウンセラーさんに相談してもいい?」

桂は答えなかった。いや、答えられなかった。承諾も拒否も即ち地獄を現す。どちらにも行けない。八方塞がりだ。
全身からどんどん血の気が引いていくのが分かった。

「これは俺みたいな小せぇ人間ひとりじゃ到底解決できない問題だし。絶対高杉のこと助けてあげるから、他人の協力ぐらい仰がせてよ」

足を組み、椅子を左右に揺らしながらそう言う銀八の表情と声は、見たことがないくらい愉しそうだった。
嫌味な風紀委員たちとじゃれあっているときより、リーダーや新八くんと話しているときより、ついこの前行われた球技大会のときなんかよりももっと、ずっと。
その表情が生まれる理由は、桂の答えを銀八は知っているからだ。
他人にこのことが漏れることが、桂が何より恐れている事態だと知っているからだ。
桂の言動総てが偽物であると、とっくに気づいていたからだ。
知っていた上で、気づいていた上で、今の今まで何も行動を起こさなかった。
桂から仕掛けてくるのを、ずっと、藪の中で獲物が罠にかかるのを見守るようにして、待っていたのだ。
 それに気付いた瞬間、桂は背筋に氷を忍ばされたような寒気を感じた。
この男、恐ろしい。
初めて、他人を怖いと思った。この間抜けた担任教師は、自分よりも上の雄なのだと。

「……金、ですか」

未だ先程の屈辱的な姿勢を自分に強いた儘、しかし顔は伏せて長い髪で表情を隠した状態で桂はようようその一言を発した。
するとまた、ぶっ、と銀八が吹き出した。

「まさか」

新しい煙草に火が点けられ、紙の燃えるじり、という微かな音。
桂がゆっくり顔を上げると、信じられないほど冷たい瞳で嗤う、自分を見下ろしている死に神のような担任がいた。
彼のその瞳が桂の表情を_桂自身経験したこともないほどの憎悪と不安と怯えが入り交じったおぞましい表情を捉えると、心底満足したように微笑んだ。
授業中でもお構いなしに様々な甘味を頬張って、幸せそうにしているときの彼の表情とは全く種類が違う。
やっと充たされた、とでも言うようなその腹の底からの微笑み。
喫むその煙草は極上の葉で作った代物であるかのようだった。
「金、とかさぁ、高校生の財布に縋るほど困ってないよ俺」
それはそうだろう。どんな副収入があるのかは知らないが、あんな高級車を乗り回すような羽振りのよさだ。
桂が高杉からせしめて貯めた金なんかでは、到底太刀打ち出来ないことぐらい少し考えれば容易に分かる。

「……じゃあどうすれば口封じできるんですか」

そう問う自分の表情が世にも醜いものであることは桂も自覚している。だが、どうしようもなかった。
感情がそのまま頬の筋肉や瞳の色に滲み出るのをコントロールできない。今まで何時だって仮面は剥がれなかったのに。
そういった悔しさまでも、ありありと浮かび上がってきてしまう。
 銀八の顔を見ることはもうできなかった。代わりに、第二釦あたりまではだけられた薄桃色のシャツから覗く鎖骨を凝視していた。
不意に、銀八がぐぐっと伸びをした。そうして立ち上がり、「何も難しいことは要求しないよ」そう言いながらぺたぺたと例の足音を響かせて戸の方へ向かう。
桂は、相変わらず先程まで銀八の座っていた箇所を見据えている。

「何もね」

がちゃりと金属が弾かれる音がして、鍵が閉められる。
予期しなかったその行動に、桂は身じろいで銀八を振り返った。
 そして世界は、色彩を亡くした。





か、桂君の貞操があああああああ