いくら平均的な男子よりも遙かに体重の軽そうな人間とはいえ、大の男ひとり炎天下の中を
担いで歩くのは想像以上に厳しい作業だった。
さらには追い打ちをかけるように、保健医は席を外しており、一度職員室まで鍵を取りに
足を運ばなければならなかった。
煙草が吸いたい、と土方は思った。
口の中に味わい慣れた煙の味が広がり、思わず唾液を呑んだ。
幸い保健室は冷房が効いており、快適だった。
先ほどいきなり卒倒した桂を、土方は奥にこじんまりと設置されているベッドまで引き摺り、座らせた。
「どうでもいいけど、いい加減それ脱げよ。こんだけ暑いのにそんなもん着て、バカだろお前」
土方は冷水の入ったペットボトルを桂に手渡しながら、ごく当たり前のアドバイスをした。
妙だとは思っていた。それは、あの場にいた生徒全員が思っていることではあったのだが。
茹だるようなこの猛暑に、まさか冬用のジャージを着てくる輩がいるだなんて。
矢張りこの桂小太郎というクラスメイトは、何を考えているのかさっぱり分からない。
土方の忠言も虚しく、桂は一向にその厚手の上着を脱ごうとしない。
ただ俯いて、渡されたペットボトルに口をつけようともせず、じっと座っている。
「お前なぁ。自分が何でぶっ倒れたかわかんねえのか?そんなもん着てるから脱水__」
「貴様には関係ない」
これには流石に、いつもは感情を表に出さない土方といえど腹が立った。
倒れたところにいの一番に駆けつけて、暑い中此所まで運んできてやったというのに、その態度は何なんだ。
大体、この男とは友達でも何でもない。別に無視してやってもよかったんだ。
土方は、桂の襟に手を掛け、力ずくで脱がそうとした。すると、弱々しくしかし必死に桂は抵抗する。
それにまた怒りを煽られ、土方は半ば意固地になって桂の身に纏っている青いジャージを引っぺがした。
「_______」
思わず、息を呑んだ。
脱がせた桂の首筋には、得体の知れない赤い痕のようなものが無数に散りばめられていた。
「……なんだこれ…」
「煩い!」
桂は土方からジャージを取り返したが、また着たところでもう遅いと知ったのか、顔を背けただけだった。
虫さされ、か?いや、それにしても酷い。何だか内出血みたいにも見える。
この不気味な痕の正体は何だ?
「どうしたんだよ、それ」
「煩いと言っているんだ!貴様には何の関係もない!」
常の無表情な桂からは想像もつかないほどの剣幕と焦燥ぶりに、土方は悟った。
此は何かある。
単なる虫さされなんかではない。正体はわからないが、兎に角何か大変なことなのだ。
「おい、まさか誰かに何かされたとかじゃねえだろうな」
そう問うと、桂は図星を突かれたような表情を浮かべた。
その時土方の脳裏に浮かんだのは、桂を常日頃から毛嫌いしている沖田だった。
自分の連れがこんな酷いことまでするとは思いたくなかったが、可能性はぬぐい去れない。
「桂、どうなん___」
「放っておいてくれと言っているんだ、わからんのか貴様?何だ、正義漢のつもりか?
俺と貴様は他人だ、そうだろう?ただクラスが同じというだけだ。
他人の事情に深く首を突っ込むものではないと小学校で教わらなかったようだな、副委員長殿」
堰を切ったように捲し立てる桂の眉間には見たこともないほど深い皺が刻まれていた。
憎悪?違う。土方が黙っていると、桂は更に付け加えた。
「そもそも貴様に助けてくれと頼んだ覚えはない。貴様なんぞに力を借りることがどれだけ苦痛だったか。
他の生徒はありがたがって貴様の株を上げるのに一役買うかもしれんが、俺は___」
そこまで怒号を鳴らして、桂はぴたりと言葉を切った。
代わりに、目を大きく見開き、何かを見つけた様子で土方の顔とは違う方向を見ている。
その目線の方へ振り返ると、今まさに入ってきた様子で扉にもたれ掛かる担任の坂田の姿があった。
「何だ、ぶっ倒れたって聞いたから来てみれば。十分元気じゃん」
心底気だるそうに、しかし少し安堵した風に銀八はそう言いながら土方たちの方に近付いてきた。
頼れる人間がいいタイミングでやってきたことに、土方はほっと溜息を吐いた。
この奇怪な人物は自分の力量ではどうにも手に負えない。
駄目な教師の見本ではあるが、何だかんだで生徒間のいざこざには強い銀八なら、
この事態も何とか収拾してくれるだろうと土方は思った。
「銀八」
土方は銀八に歩み寄り、簡潔に事情を説明した。
そして、桂の方をちらりと振り返ると、先ほどとは打って変わって怯えきった様子でその場を微動だにしていなかった。
ひらりと、少しだけ妙な引っかかりが土方の脳裏に閃いたが、彼は無意識に其れを無視した。
銀八はわざとらしく溜息を吐き、桂の方へ歩み寄る。
目線を合わせるため桂の前に跪く格好を取り、「ヅラ」と優しく呼びかけた。それを見て、また少し土方は安心した。
矢張りこういう事態に銀八は強い。認めたくはないが、いい教師なのだと改めて痛感する。
以前にも沖田が他校の生徒とトラブルを起こした際、大事にせずに話をつけたのも銀八だった。
それ以外にも仲裁役を多く頼まれていると聞く。
今回の件は揉め事でも何でもないし、桂も銀八になら事情を説明できるだろう。
しかし、何か妙な引っかかりが土方の心にわだかまりを残している。
それは、銀八が入室してからの桂の態度が一変したことと、あの怯えた表情の所為であった。
だが、自分はこの教師を信頼している。それは揺るぎない。
電波でお馴染みの学級委員長のことなど、もう彼に一存すればいいではないか。
「何があったの?誰かにやられたの」
土方は二人から少し離れたところに立って、様子を見ていた。
銀八が幾ら穏やかな調子で語りかけても、桂は動こうともせず、話そうともしない。
彫刻品のように、じっとその場で肩を竦めて下を向いている。シーツを握りしめている手は真っ赤だった。
そしてついには、崩れ落ちるかのように縮こまり、顔を両膝に突っ伏した。
泣き出したのだろうか?肩が震えている。土方は気まずい思いでそれを見守った。
「土方くん。ここは俺に任せてくんない?」
「…あ、ああ」
「ごめんね、ありがと。授業戻っていーよ」
銀八の判断は正しいと感じた。
特に親交のない自分が此所にいると、話せないこともあるのかもしれない。自分の仕事はここまでだ。
素直に部屋を後にしようとすると、桂が起き上がった。その桂と一瞬目が合った。
彼は泣いてはいなかった。その代わり、とんでもなく悲痛な表情を浮かべていた。
まるで捨てられる犬のような。縋るようなその目つき。
桂が、何故か必死で助けを求めているように土方は感じた。
だが、それも錯覚だと自分に言い聞かせて、彼は涼しい保健室を出た。
灼けるようなグラウンドに戻って、沖田や近藤とサッカーを再開したときも、
更衣を済ませて冷水を浴びるように飲んだときも、彼の心の中にはあの桂の表情が浮かんでいた。
そしてあの時抑制した筈の引っかかりが、また彼の心に戻ってきて今度は其処に棲みつき始めてしまった。
だらだら続くよ土方篇
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