土方十四朗の気分が晴れないのは、当然桂小太郎が原因であった。
正確に言えば、桂小太郎の首筋に在った得体のしれぬ痕と、保健室を出るときに見せたあの表情が原因であったのだが。
そのことはもう忘れようと努めてはいるものの、どうしても頭の片隅にそいつが残っている。
何だか、見てはいけないものを見てしまったことによって、自分がとんでもない事実に触れかけているような気さえしているのだ。
桂のことについていっそ神秘的なまでに何も知らなかったので、余計にそう思うのかもしれない。



体育の後の選択授業を終え、土方はZ組に沖田や近藤と共に廊下を歩いている途中、保健室の前で
既に制服に着替えていた桂とすれ違った。目が一瞬合ったが、何も言わなかった。



ついこの前行われた席替えで、土方は教卓の一番前という最悪の位置を引き当ててしまったので、
銀八がホームルームのために教室に来るぎりぎりまで自分の席にはよりつかなかった。
その所為で、隣の席にいるはずの桂の姿がないことに気がつかなかった。

「はーい一旦集合―。続きはホームルームの後にしてくんない?3分で終わるから」

銀八のいつもの気怠い号令がかかる。土方は妙な胸のざわつきを感じた。
そして思わず、銀八に「銀八、桂は?」と問うてしまった。
すると銀八は、ああ、と今まで忘れていたような口ぶりで、

「桂なら体育の後早退したよ」

と言った。


どういうことだ?土方はひどく動揺した。



今、どうして嘘を吐いた?



気にするな、と自分に言い聞かせるが、どうしても違和感がぬぐい去れない。
これ以上首を突っ込んでもどうにもならないことぐらい、馬鹿でも分かる。
もしかしたら桂が銀八には早退すると言って、未だ残っていたのかもしれない。
だがそうだとしても、桂がそうする理由もよくわからないし不自然だ。

駄目だ。こんがらがってきた。
くそっ、と心の中で土方は悪態を吐いた。

普段の馬鹿騒ぎや人間関係のこじれなどといった事柄には我関せずといった態度を決め込んでいる癖に、
何か尋常でない事態の匂いを察知してしまうと放っておけない自分の性分を、これほどまでに疎ましく感じたことはなかった。

桂の首元の、得体の知れない痕。銀八が現れてから一変した態度。そして銀八の嘘。

更には1学期末の断髪騒動もある。そういえば、同じ日に銀八は桂が嫌いだと告白した。
一夏前の話になるのですっかり忘れていたが、その告白を聞いた直ぐ後に桂は頑として切ってこなかった長い髪を、
クラスメイト全員の前でばっさりと切ったので、その妙な符合に首を傾げたのだった。


だが、もしもそれが偶然ではなかったとしたら?


今回だってそうだ。桂が態度を変えたのは、銀八が保健室に入ってきてからだった。
それまでは腹立たしいほどに大人しくなかったというのに。

桂のあの表情___あれは、怯えていた。確かにそういう瞳だった。

ここで、土方はひとつの可能性に巡り会った。初めて、桂のあの無数の痕と銀八が繋がったのだ。
しかし土方はすぐさまにそれを頭から振り払った。
あくまで可能性であり、物的証拠もなければ現場を押さえたわけでもない。
第一、銀八が一生徒に何かしでかすわけがない。
そんな人間ではないことは、自分自身が誰よりも分かっていると自負さえしている。


 土方が悶々としている間に、本当にものの3分でホームルームは終了し、ばたばたとクラスメイトたちが帰り支度を始めた。
銀八はクラス名簿片手に一番早くに教室を出ようとした。
土方は特に何を聞くという意図があるわけでもなく、しかし少し急いて銀八を追った。


「銀八、あのさ。…桂のことなんだけど」


唐突に背中に向かって問う土方の声に、銀八はさほど驚いた様子もなく振り返った。
もしかして、俺が何か聞きに来ることの予想がついていたのだろうか、などと疑心暗鬼になった。


「なに?」

「…いや、あの傷みたいなの…何だったのかと思って」

「ああ…それがさ、実は結局教えてくれなかったんだよね。
まあ時間が必要かも、俺のことあんま信用してないだろうからさ」


銀八と話すうちに、土方は自分の思考回路のねじ曲がり方に呆れ始めた。
やはり全てが偶然の一致なのだ。
第一、桂が銀八の言葉に反してまだ学校にいたぐらいで関連性を疑うなどどうかしていた。
この教師は、他の薄汚い大人とは違う。
銀八だけは、自分たちのような青臭い高校生と同じところにまで降りてきてその若さに付き合ってくれる、
信頼できる唯一の教師だ。

「…そっか。まあ、俺もちょっとばかり首突っ込みすぎたな」

「でも心配になるのはわかるよ。あれは異常だもん」

銀八の表情からは、心底桂を心配している様子が窺えた。
確かに銀八は桂に苦手意識を持っているかもしれないが、それとこれとはまた別問題だ。
この件を通して、桂も銀八といい関係が築けるかもしれない。土方はやっと、思考の呪縛から解放された。
気持ちが軽くなった彼は、捨て台詞のつもりで先ほどまでの馬鹿げた考えの一片を織り交ぜた。


「でもま、銀八に任せてりゃ平気だろ。でも何かあいつ、銀八のこと怖がってるみたいだから優しくしてやれよ」


その言葉に、ぴくりと銀八の動きが止まった。
見たこともない彼の冷たい表情に、覚えず土方は戦慄した。
人間味の欠片も帯びていないような、冷酷で色に喩えれば蒼い。
桂を気遣っていた銀八と、今目の前に立っている人間は、完全に別人だった。
銀八が二重人格だと言われても、この時ならば信じただろう。


「…それ、あの子が言ってたの?」

「え…?」

「俺が怖いって、あの子が言ったの」


言ってはいない。桂は銀八に関してはただの一言だって口にしていない。
にも関わらず土方は、嘘を吐いた。意図したのではなく、自然に首を縦に振っていた。
それを見ると銀八は、至極興味なさげにふぅん、と相槌を打った。
そして次の瞬間には、常の気だるげな表情に戻っていた。

「担任の教師としちゃあ哀しいね」

それを言うと、銀八は踵を返し廊下を歩いていった。ひらひらと、前を向いたまま土方に左手を振った。

(…何だったんだ)

ホームルームの3分間に自分が思い当たり、封印したばかりの筈の可能性が、あながち外れてはいないのではないかと、
土方は銀八の白衣を見送りながら感じた。

じっとりと掌に脂汗が浮かんでいる。あんな顔を見てしまったからだ。
正直に言って、怖かった。
飄々として、ことあるごとにじゃれついてきて、下らない話に花を咲かせ、生徒の校則違反も堂々と容認する、
土方が知っている銀八は果たして虚構だったのではないかと思うほど。
それらは仮面であるのではないかと思うほど。
またも同じ思考の呪縛が彼を襲う。滅多に起きない頭痛まで土方は感じた。




そして彼は、自分が吐いた小さな嘘を、後にひどく後悔することとなる。










いらんことしいな土方氏。性懲りもなく続きます