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翌朝、桂はいつも通り始業30分前に学校の下駄箱にいた。
学級委員の仕事があるというのももちろんだが、桂は朝の誰もいない校舎が好きだった。
遠くで野球部が朝練に精を出しているのが窺える。近くの水飲み場から、汗を流す部員たちの声が聞こえてくる。
そういえば土方は野球部のエースだと聞いたな、と何の気なしに思った。


「ヅラ」


顔を上げると、目の前に銀八がいた。
珍しいと言えば珍しい。
朝に呼び出されるのは低血圧という銀八の体質上希有だし、もしそういうことになるならば事前に携帯に連絡があるはずだったからだ。


「…おはようございま…」
「ちょっと来てくれる?」


襟元を気にしながらした下手くそな挨拶を遮り、銀八は抑揚のない声でそう云った。
桂の返答を聞く前に先を歩く銀八の白い背中を、桂は追って早足で歩いた。

用件など聞かずともわかっている。だが、桂はこの時自分たちを覆う重圧を感じていた。
どうにかこの空間を切り裂きたいと桂は思ったが、何を話すこともない自分と教師の関係が其れを阻んだ。
無言でたどり着いた先は、当然国語準備室だった。



銀八は戸を閉めると、何も言わずに自分の教員椅子に腰掛け、胸ポケットから煙草を取り出して、火を点けた。
桂は指示を待った。例によって床に四つん這いになれだとか、咥えろだとか、そういった類の指示を。
鍵がかけられていないことが気になったが、自分から施錠するのも期待しているようで変な話だと思ったので何もしなかった。


「…あの、せん…」
「ヅラくんさぁ」


銀八はろくに吸っていない煙草を指で弄びながら、桂を見ずに唐突に尋ねた。


「俺に言わなきゃいけないことあるよね?」


その言葉を受け、桂は必死で頭を働かせたが、全く思い浮かばない。
分かるのは、何か自分がしでかしたということだ。
明らかに責めている口調であるし、先ほどの重い空気の正体だとすれば辻褄が合う。


「え…」
「土方に何言った?」


土方?何かまずいことを言っただろうか?桂は昨日の保健室での諍いを思い返してみる。

「…痕のこと聞かれて、お前には関係ないって…あの時は頭に血が昇って、ちょっと言い過ぎまし」
「どーでもいいんだよ、そんなこと」

銀八が荒げた声に、思わず肩がびくりと竦んだ。
だが、それ以上自分が土方に言った言葉など思いつかない。
何とか勘づかれないように取り繕おうとして、助けてもらったにも関わらず土方に暴言を吐いて___
その後は銀八が来て、頭が真っ白になってしまった。
銀八が煙草を手に持ったまま近付いてくる。桂は後ずさり、戸に背中をつけた。安いガラスが桂の重みで軋む。


「俺が怖いって?」

「……何のこと……」

「お前まだ惚ける気」


銀八は戸に腕をかけた状態で、桂の顔を覗き込みながら囁いた。
その声には尋常でない量の怒りが籠もっていた。

血が引くのを桂は感じた。逃げ場はない。でも告白すべきことも、ない。


「俺が怖いんだって、土方に言ったんでしょ」

「…!?な…言ってない、っ!」

「しらばっくれんじゃないよ。嘘つきは大嫌いだよ、先生」


嘘じゃない。そんなこと、土方に言うはずがない。よりにもよって土方に。

桂は誤解を解こうと躍起になって叫んだ。


「言ってない!あんな奴にそんなこと、言うわけない!」

「じゃあ何?土方くんが嘘吐いたって言うの?何で?」

「わ…わからない、けど、…でも俺は…!」

「…お前、嘘吐くの下手だね。俺にも、土方にも」


銀八が腕を下ろしたかと思った次の瞬間、手の甲に熱と冷たさが一気に混じったような激痛が走った。



「ぅああああアァああッ!!」



刺されたような痛みに桂の膝の力は抜け落ち、その場に崩れ落ちた。
熱さと痛さが局部から全身に拡がっていく。剰りのことに、桂の眦からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていった。
視界に映る銀八の人差し指と中指の間には、火の消えた煙草がぶら下がっていた。
自分にどうしようもない痛みを与えたものは、煙草の火だったのかと悟るのにも、痛みが邪魔して時間が掛かってしまった。

  怯えている桂に一片の同情を掛ける様子もなく、銀八は桂のきっちりと第一ボタンまで留められたシャツの襟を掴み上げ、
桂をもう一度ドアに叩きつけるようにして立たせた。


「うぁアっ…!う、ひぃっ…やぁっ!」

「お前が嘘吐くからだよ。ちゃんと謝れば済んだのに」

「…がぅ…!しんじて…せんせぇ…!」


桂が泣きながら懇願した、その時だった。
背に暴力とはまた別の衝撃が走り、驚いて振り返る。
桂は戸が開けられたのだと気付く前に、其処に一番居てはいけない人物の姿に絶望した。



ドアを思い切り開け放ったその人物は、銀八ではなく、野球ユニフォームを身に纏った土方だった。



















































1年生でありながらレギュラーである土方は、誰よりも熱心に朝練に励んでいた。
実力で射止めたレギュラーの座だが、矢張り上級生の目は嫉妬や批判に光っている。
彼らを見返し、ひいては認めさせるためには、誰よりも努力するしかない。
そう思って土方は、週3回の朝練を無遅刻無欠席でこなし、偶に一人でバッティング練習なども行っていた。
ただ、煙草は身体に悪いとわかっていてもやめられない。根っからのニコチン中毒である。
スポーツ推薦で入学したこの駄目高校の好きなところといえば、生徒の喫煙に妙に寛大なところぐらいだ。

今朝も、土方にとって何ら変哲のない朝だった。水飲み場から桂小太朗と、担任の坂田銀八が見えるまでは。

当然、彼の脳裏には昨日起きたことが思い浮かぶ。
というよりは、銀八のあの表情が。

もしもそれさえなければ、二人がこんな朝早くから連れ立ってどこかに行くのを見ても放っておいただろう。
きっと相談事だろう、と寧ろ彼らの関係が上手く築かれていこうとしているのだと安堵して、練習を再開できた。

だが現実は違う。俺と話した後に、銀八が桂と初めて顔を合わすとしたら。あくまで自分の仮説が正しい場合の話だが。
行動派の土方は碌に考えず、横で水を浴びていた部活仲間にすぐに戻ると言い残し、銀八と桂の後を追った。



何だか尾行のようだと思いながらも、物陰に隠れ足音を立てぬようにしながら追いかけたその先は、銀八の住み処である国語準備室だった。

 悪いとは思いながらも、土方はそっと扉まで近付き、聞き耳を立てることにした。
此所での会話が普通のものであれば、自分の思い違いは証明される。
いっそ土方は、自分が間違っていることを祈っていた。
腰を屈め、けして物音を立てないように気を遣りながらじっと耳を欹てる。
しかし、ぼそぼそと何事か囁いている程度しか聞き取れない。
声のトーンからして、特に異常だというわけではなさそうである。


 自分の行為に嫌気が差し始め、そろそろ戻ろうかと少し腰を上げた時だった。


薄い扉ががたんっ、と音を立てて軋んだ。
驚いて見上げると桂の長い髪が、硝子越しに映っている。
桂が大きな声で何か言っている。

そして、その少し後。



「うあああああアァあああッ!!」



絶叫。土方は息を呑んだ。

その叫び声のすぐ後に、桂の黒髪がずるずると下がって消えていき、白衣の影がぼんやりと浮かんでいた。
驚愕と絶望感に、土方は暫く目も離せずに硝子一枚越しにもみ合う二人の姿を見ていたが、殆ど本能で、体勢を立て直してから
迷いもなく戸に手を掛けた。鍵が開いていたことが唯一の救いだった。



勢いよく開け放った扉の向こう側では、桂の襟を掴んでいる銀八と、真っ青になって号泣している桂の姿があった。



「……銀八……!?」



ぱ、と名を呼ばれた銀八は桂から手を離し、何食わぬ顔で煙草に火を点け、吸い始めた。
桂は土方を見るともっと顔を蒼くして、呆然と戸の前に立ちはだかる土方を押し退け、そのまま走って行ってしまった。


「っ、おい桂…!」


桂を追うことも考えたが、それよりも今は、目の前にいる担任を罵倒してやりたい気持ちの方が強かった。
其れは彼の正義感がさせることだった。


「銀八てめぇ…!桂に何して…!」

「あー…はいはい。ごめんって…俺も大人げなかったよ」

「生徒に手ぇ上げるなんて、しかもあんな…!」

「やー、ついかっとしちゃって。イタいとこ突かれちゃってさ…ほんと、ごめん」


土方は裏切られた気持ちで一杯だった。
怒りだとか憎しみだとかよりも、哀しみの方が強い力を持って青い彼を苦しめた。
信頼していた教師が、級友を痛めつけているなんて。
確信を持ってしまった。振り払えると思った可能性に、確信を持ってしまったのだ。
言いたいことは山ほどあるのに、土方は唇を切れるほど噛むことしか出来なかった。
銀八の顔すらちゃんと見ることができなかった。
苦し紛れに、土方は桂が走り去った方向へと疾走した。彼を捜し、真実をちゃんと聞こうと思い立ったのだ。

銀八は追いかけることは愚か、呼び止めることさえしなかった。
其の態度が、土方の疑いが事実だと物語っているように思えた。

























「待てって!」


運動部に属してはいない筈であったが、桂は意外にも俊足だった。
野球部で走り回っている土方でさえ、桂に追いつくことは容易ではなかった。
ようやく逃げる桂の少し驚くほどに細い腕を掴んだときには、土方も息を多少荒げてしまっていた。

「…あいつに、何かされたんだろ」

土方はオブラートに包むこともこの時ばかりはせず、唐突に核心を突いた。
桂は肩を上下させながら、けして土方の方には顔を向けず、尚も逃げようという体勢で前方につんのめっていた。

「これ以上隠すってのも、無謀だ。そうだろ」

桂は何も言わない。土方は少し苛立ちを覚えた。
どうしてここまでして担任からの暴力をひた隠しにするのか、土方は理解に苦しんだ。

「…話せよ。助けてやるから」

助けてやる、とは根拠のない言葉である。
其れを理解しながらも、土方は桂に真相を聞きたい一心でそんなことを云った。

すると桂はその言葉に、びくりと一度肩を竦ませ、此方を振り向いた。

悲痛。彼の表情にはその一語が相応しすぎた。
そこはかとない絶望に蝕まれたような、まるで怯えた子供のような、哀しい表情だった。
それは土方の慈悲や債務を喚起するのに十分で、先ほど放った「助ける」という無責任な言葉に責任を付与させた。

助けてやらなければ。俺が、この男を助けなければ、此奴は壊れてしまう。

桂はしかし何も言わずに、今見せた表情を後悔するように今度こそ思い切り土方の腕を振り払い、何処とも知れぬ方向へ駆け出して行った。

土方はもう追わなかった。
今の表情だけで、彼の起こすべき行動の目的としては、もう十分だった。


























銀八…どこへ行く
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