さよなら銀八先生
19
始業数分前の月曜日の職員室。
中間試験の採点を無事終えた教師たちは、数日前の慌ただしさを消すようにして悠々と時を過ごしている。
試験の結果の思わしくなさを題材にした談笑があちこちでされているのも、典型的と言っていい試験明けの特徴である。
「坂田先生、ジャンプ買いました?」
社会科公民の服部が長い前髪を揺らし、珍しく職員室にいる銀八を見つけ近寄ってきた。
20代後半になって未だに毎週欠かさずにジャンプを読んでいるのは彼と銀八ぐらいのもので、月曜になると決まってこの会話がされていた。
だが、今日に限っては服部には他に意図があった。
「あー、まだ」
「今週で連載打ち切りらしいですよ、ギンタマン」
「あー。あれつまんねーもん」
砂糖を入れすぎて濁ったコーヒーを無表情で飲む銀八を、服部は不審げに見守る。
「今回、Z組の平均点随分下がりましたねー」
「あ?そーなの」
「国語はそうでもなかったんですか?」
「下がったよ。だだ下がり。もー駄目だねあのクラス」
受け持ちのクラスの平均点のことなど、心底どうでもいいと言った様子で低血圧の銀八は面倒臭そうに返答する。
服部はしばし押し黙り、試験開始以前から気になっていた噂の真偽を確かめるべく核心に触れた。
「やっぱり、桂がやめちゃったのは痛いっすね」
「……あー」
「ずっと気になってたんすけど、桂って何でいきなり退学したんですか?暫くその噂で持ちきりだったじゃないですか。
重い病気だとか、いじめとか、あと親の会社が倒産したとか」
「…さぁね」
銀八はこれ以上は聞くなと言う風に、コーヒーを飲み干して服部に背を向け職員室を出た。
服部も何となく意気消沈して、自分の職員机に戻った。
桂は一週間無断欠席した後、退学届けを持って学校へ現れた。
校長である寺田は理由を問いただそうとしたが、桂は家庭の事情としか答えなかった。
もう決めたことなので、と温度のない声で呟くばかりであった。
「先生」
銀八は中庭で煙草を吸っていた。
桂が声を掛けると、さも来ることがわかっていたかのようにゆっくり振り向いた。
二人は距離を開けて対峙した。不思議なほどに、静かだった。
まるでこの世には二人以外は誰もいないかと錯覚してしまうほど。
「俺、学校やめます」
その言葉は潔い響きを有していた。実際桂の声も些かも震えず凛としていた。
焼きつくほどに眼は真っ白な銀八の姿を捉えていた。
「父の会社が倒産して…借金が」
あの日、最後に銀八と桂が身体を繋げた夜の後、桂が目にしたのは自室で首を吊る父親の姿だった。
後になって父の事業が失敗し、多額の借金を負っていたということを知った。
同じ屋根の下に住んでいながら、桂は全くそれに気付かなかった。
挙げ句の果てには父が自分の首を吊ったとき、桂は男に抱かれてひたすらに喘いでいた。
それも担任教師に、自分からせがんで。
それは地獄に墜ちるに値する重罪に思えた。今すぐにでも制裁されてもいいほどの。
「でも、親戚が肩代わりしてくれることになって。
叔父夫婦なんですけど、会社を経営してて、そこで働きながら返すことになったんです」
嘘だった。父に兄弟はなかった。親戚とも疎遠で、桂は今まで会った経験すらない。
莫大な借金を返す宛など何処にもなかった。
「でも、学費を払い続ける余裕もないし。親戚の家はここから遠いから」
自宅は父が死んですぐに差し押さえられた。帰る家はない。どこにも行けない。
ここからどんなに遠くまで行っても、家などどこにもありはしない。
「だから、これでお別れです」
何とあっけない終わり方なのだろう、と桂は思った。
どうやっても逃れられないと思っていた関係から、今こんなにもあっさりと逸脱しようとしている。
全てを引き替えに、桂は銀八から逃れることができる。
もう無理に性行為を強いられることも、慣らされずに挿入されて痛い思いをすることも、学校で別人のように明るく振る舞う銀八を見て
いたたまれなくなることもない。彼に触れられることはもう、二度と。
「そう」
「はい」
「元気でね。楽しかったよ」
「…はい」
こんな時にも銀八の仮面は崩れない。いっそ常よりも感情に乏しい凍ったようなポーカーフェイスが、目に染み入る。
まるで何かの催しが終わったときのような、別れの台詞。陳腐な、使い古された台詞。
ああ何て、似合わない。この場にもこの状況にもこの男にも、何て似合わない。
そして、これもまた陳腐に、合図をするようなチャイムの音が少し離れたところから響く。
「じゃ、授業あるから」
「…はい」
何かもっと他に言うべきことがあるんじゃないかと思う。せめてこんな誰にでもできる生返事以外を発したい。
そう思う内にも銀八の見慣れた白い背中は遠くなっていく。
かつては自分も其処にいることを許されていた、くすんだ校舎に白い背中が吸い込まれていく。
それを制止するためではないが、桂は切り裂かれる思いで、声を振り絞った。
「先生!」
耳に膜が張ったように、自分のか弱く震えた声は小さく遠く鼓膜に響く。
銀八は歩を止めた。しかし振り返らない。
「先生、___」
先生、もうそう呼ぶことすらこの先許されない。彼はもう、今この瞬間も既に桂の教師ではないのだ。
だからこれが今生で最後の、先生、先生。
「先生、忘れないで」
伝えたかったことは本当に、そんなことなのかはもうわからない。
声帯を裂いて這い出てきた言葉が宙を舞う。
果たして本当に銀八にちゃんとした言語として届いているのかも、あやふやだった。
それほどまでにもう、心があたまが憔悴していて。
銀八はほんの数秒そのままで、踵を返し怒ったようにして此方へ早足で歩いてきた。
表情を窺う余裕もなく、銀八は桂の目の前までやってきて、そして桂を抱き締めた。
視界には、白さえ映る隙間もない。痛いほどに押しつけられて、息も止まりそうだった。
抱き締め返す余裕も、泣く余裕も、何もない、ここにはもう何も残っていない。
永遠とも、刹那とも取れる時間が過ぎて銀八は徐に桂から身体を離し、また同じようにして去っていった。
どんな顔をして、何を想って歩いていくのか。一度も彼の思考を解せたことがないので、今回もやはりわからない。
何度も抱かれた相手なのに、結局最後まで何も理解することは許されなかった。
銀八の遠ざかる後姿をただ呆然と見つめながら、桂は泣きそうになる自分を叱咤した。
いっそ全て忘れられれば、と自分の言葉を棚上げして、二度と訪れることのない学舎に背を向けた。
次でラスト
20→