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弟から電話があった日からちょうど一週間後の、冷たい風が吹く日曜に、銀八は長年訪れていなかったかぶき町に足を踏み入れた。

日曜の昼日中、他の繁華街の喧騒を尻目に、その町はまるで昼寝をしているかのようにひっそりとしていた。
弟の住むマンションはここから車で数十分といったところだ。かぶき町とは最も縁遠い住宅街に建つ高級マンションに、金時は数年前から暮らしているという。
銀八は、ただの一度もそこへ足を踏み入れたことがなかったという事実に、今回初めて気が付いた。

無数の吸い殻とゴミが散らばる汚い道を、銀八はゆっくりと歩く。夜を待っているネオンの装飾たちは、日光に曝されて、その老朽ぶりを露わにしていた。
時折疲れた顔の金髪の女や、外国人とすれ違う。彼らはちらりと銀八を見やるが、その視線は堅気の人間に向ける類のものではなく、
仲間意識と呼べるまでの親しみさえ感じるほどだった。人目を引く銀髪が、この街では歓迎される。きっと誰も銀八を教師だなんて思わないだろう。

煉獄のような孤児院で、唯一銀八ら兄弟を人間として扱ってくれた吉田が早すぎる死を遂げてからすぐ、二人は施設を脱走した。
当時十四か、十五ぐらいの年齢だったと思う。その年でまともに働けるわけもなく、頼る当てもない二人がこの街に流れ着いたのは、必然だった。
当初は風俗嬢やキャバクラ嬢のかばん持ち、黒服と呼ばれる風俗店の雑用全般のような仕事をそれぞれ行っていたが、ある日銀八がついていたキャバ嬢だか
風俗嬢だかが入れ込んでいるホストのオーナーとたまたま遭遇し、その場でスカウトされた。
具体的な話をしている際に、かぶき町に双子の弟もいると漏らすと、じゃあその弟も連れてきてよ、ということになり、揃って入店することとなった。
金髪と銀髪の双子の兄弟、というまるでドラマの設定のような風貌も手伝って、二人はホストとして人気を博した。
今まで体験したことのない、煌びやかな生活がそこにはあった。金を払って自分に抱かれたい女がわんさかいて、店からは芸能人のような厚い待遇を受け、
瀟洒なマンションに住み、食べたいものを食べたいだけ食べられる、まるで極楽のような日々だった。

望めば永遠にとは言わずとも、もう少し長くそんな生活を続けることができたはずだったのに、何故自分はそれらを全て捨て、教職などという狭苦しい道を
選んだのだろう。銀八は物憂げにそんなことを思った。
女から金を騙し取ったり、弱者を征服したり、暴力で大抵のことを片付けたりすることが嫌になったわけじゃない。
ああ、そういえば___金時が言ったんだ。兄ちゃんは教師に向いてるんじゃないかって。
仕事上何かと頻発する揉め事を難なく解決したり、商売敵であるはずの他のホストに妙に慕われたり、新入りの指導がうまかったり、そんな仕様もない根拠だった。
それを真に受けて、いつしか本気でここを脱け出して、真っ当な教師という職を手にしたいと思うようになったのだ。どうして忘れていたんだろう。
そして、どうしてこんな、うらぶれた真昼の繁華街にいる時に、そんなことを思い出さなきゃいけないんだろう。
しかし、それこそが今日わざわざここへ来た最大の目的だったということを銀八は思い出し、足を止めた。

ここが教師としてのルーツだなんて、それこそ安いドラマのようだと銀八は思った。
そして、自分が結局今の今まで忘れられずにいる相手が教え子だなんて、俺の人生は本当に三文芝居そのものだ、とも。

 銀八はもう用は済んだと、くるりと踵を返して元来た道を歩き始めた。感傷に浸りにここへ来たわけだが、それが済むと突然こんな汚い街を当てどなく歩くのが馬鹿らしくなってきた。
それでも、これまでの人生を反芻するためにはここを訪れないわけにはいかなかった。
何せ、俺は生まれ変わるのだから。











新宿駅前でタクシーを拾い、弟の住むマンションへ向かう。運転手が寡黙な性質で幸運だった。あれこれと詮索されたり、世間話をする気分ではなかったからだ。

近くの路地でタクシーを降り、一等のマンションや住宅が立ち並ぶ道を歩く。かぶき町なんて間違っても足を踏み入れないような人々が住む東京の一等地だ。
休日にも関わらず、街は静かだった。きっと大半の住民は家族で遊園地にでも行っているのだろう。

番地とマンション名を確認し、エントランスへ入る。まるでホテルのロビーのような作りのそこは、銀八を居心地悪くさせた。
部屋番号を押してインターホンを鳴らすと、暫くして機械越しに弟の抑えた声が聞こえた。俺だけど、と言うとうん、上がってきてと弟が答えた。
その声の背後に桂はいるのだろう、そう思うとどうしてか肌が粟立った。

弟からの電話があってから、昼夜を問わず己を支配していた想像が、目の前に確かな現実として存在していると思うと、踵を返して一目散に家に帰りたいような、
階段を駆け上がって今すぐその現実と直面したいような、相反した衝動に駆られた。だがそのどちらもせずに、銀八はエレベーターに乗り込み、階数のボタンを押した。
鼓動だけが、否応なしに早くなる。時間は充分にあったのに、銀八は桂に会って何を言うべきか、何をするべきかということを全く考えなかった。
ただ、自分の知らない時間を重ねてきた、きっと以前よりもやせ細っているであろう桂の姿を思い描くので精一杯だった。

ぬけぬけと訪ねて来た自分を見て、桂はどんな顔をするんだろう。怒り狂うだろうか、それとも何の感情も出さないだろうか。
現実的に考えれば、驚きはしても喜びはしないだろう。自分は教師として、いや人として最低なことをうら若い彼に強いてきた卑劣な存在なのだ。
それを承知していながら、それでも彼に会いたいと願うのは、弁解の余地もなく自分のエゴだ。いっそ追い払われてしまえば、そう思う気持ちもある。
そうすれば、自分はもとの穏やかで優しい生活に戻ることができる。だけどエレベーターは音もなくゆっくりと地上から離れ続けていく。
今乗客がどんな思いを抱えているかも知らずに、ただ定められた動作を遵守する。そしてその動きを止める選択をすることができない。
ごごん、と鈍い音がして、エレベーターは停止し、ゆっくりと扉が開いた。

フロアには人影がなかった。弟の部屋は探すまでもなく、開いた扉のすぐ先だった。ドアの前に物はなく、表札にも何も掲げられてはいない。息を詰めてチャイムを押す。
銀八は思わず両目を軽く閉じ、鍵の開く音を待った。まるで判決を待つ罪人のようだ。
思っていたよりも早く、ドアは開いた。目を開けるのとほとんど同じタイミングで、数年ぶりに会う弟が姿を見せた。

「…久しぶり」

金時は、銀八の頭を見ながら囁くようにそう言って、曖昧に微笑んで見せた。

「…痩せたな」

看病疲れなのか、金時はかなりやつれて見えた。元々あった筋肉が根こそぎ落ちてしまったという印象だ。鍛える暇がないことぐらいは容易に想像できる。
それでも、意外なことに弟に悲壮感はなかった。待ちうける運命の全てを受け入れているようにさえ見えた。

「そうか?久しぶりだからじゃね」
「あー、そうかも」
「銀ちゃんは、ちょっと太ったな」

金時が屈託のない笑顔でそう言うので、銀八もつられて少し笑った。数年の隔たりが、この一瞬で溶けて消えたように思えた。
兄弟の、いや双子の特権というやつなのだろうか。これ以上何かを話す必要は、最早なかった。少し間を置いて、金時は中に入るよう目で促した。

玄関の様子からでも、部屋の清潔感がすぐにわかった。掃除嫌いで無精者だったはずの金時の自宅とは思えない。きっと桂のためだろう。
奥のリビングに通じる廊下に、塵ひとつ落ちていない。

「あそこ」

金時は、桂のいる部屋を顎で指し示した。リビングに行くまでに4つある扉のうち、一番奥にある部屋だ。

「俺は暫く外にいるから。…帰る時には連絡して」
「…ああ」

そう言うと金時はそのまま玄関へ向かった。出て行く間際に振り向いて、ひらりと手を振った。
何となく、それが見納めのような気がして、もう少し弟と話をすればよかったのではないかなどと不吉なことを考えた。
しかしそれも、桂のいる部屋に視線を向けるとすぐに打ち消された。

何の変哲もない扉なのに、とんでもなく重く、がっちりと閉ざされた鉄扉のように銀八は感じた。数秒間物言わぬ扉と睨みあい、意を決してから、扉をノックした。

「金時さん?お客さんですか?」

扉の内側から、くぐもった桂の声が聞こえた。もう一度このまま、正体を明かさずに声を聞きたいと銀八は思った。
ああ、何を言えばいい?許してくれと泣き崩れながら懇願するか?俺はここに来るべきじゃなかったのかもしれない、そう思うとまた逃げ出したくなった。
覚悟を決めたはずなのに、怖くてたまらなかった。だけど今逃げれば、もう二度と会うことはできない。これまで以上に桂の事を想いながら、けして会うことが叶わずに、
くだらない日常を消化しながら静かに裁きを待ち続ける日々を送ることになる。銀八は深呼吸をひとつして、ゆっくりとドアを開けた。













「……せ、」

一瞬、自分が幻を見ているのかと桂は思った。
死ぬ間際に、自分が一番見たかったものを見ることができたんだろうかと。

だけどすぐに違うとわかった。それならば、先生は白衣のはずだし、少しだけ歳を重ねた印象だって受けるはずがないのだから。

これは現実だとわかると、急に鼓動が跳ね始めた。何か言わないと、と思うのに、唇が震えるばかりで言葉が紡げない。
銀八は一歩も動かず、ただベッドの中で身体を起こしている桂を見ていた。

「……久しぶり、ヅラ」

金時とよく似た、だけど少しだけ低い声であの不本意なあだ名を呼ばれる。その瞬間に、まるであの時に戻ったような錯覚に陥った。
憎んで、憎みつくして、その後に縋って、どうしようもなく欲して、焦がれ続けたあの時の感情が、その後桂に起こった様々な出来事を、
彼の頭の中から根こそぎ消去してしまったようだった。

「…ヅラじゃありません桂です、…先生」

反射的に零れおちた桂の常套句に、銀八は不器用に笑った。
桂は、病に倒れたとは思えないほど美しいままだった。小さい窓から差す陽光を受けて、黒い髪が淡く優しい色を纏っている。
驚き硬直した表情がほどけて、何だか泣きだしそうな顔をしている。

桂がベッドから降りようとしたので、銀八は片手でそれを制し、少しずつ桂に歩み寄り、ベッドの縁に腰掛ける形になった桂に跪く格好を取った。
見上げる桂の顔には、予想のどれとも違う種類のそれがあった。桂は、自分に会えたのが信じられないほど嬉しいという表情をしていた。
銀八はそれを見て思わず泣きだしそうになったのだが、無表情のままで桂を見詰めた。
あれほど非道なことをしたのに、桂は無垢に自分を愛したままだった。
若くして全て失ったこと、こんなにも早く死んでいくこと、全部俺のせいにしたっていいぐらいなのに。

「…桂」
「……先生……俺、」

どうしようもなく会いたかった。忘れないでいてくれて本当に嬉しい。あの時最後に願ったことが叶った。もうこれで十分だ。

桂は、その想いの丈を一言で表すことのできる言葉を探したが、その前に銀八の腕にしっかりと抱きしめられたので、考えることをやめた。
抱きしめられたのは最後に別れを告げた時、ただ一度だけだったけれど、桂はその感覚を鮮やかに覚えていた。
首筋の煙草の匂い。体温。力の強さ。間違いなく俺は今一番愛した人の腕に抱かれている。かつてないほどの幸福感が桂を支配した。

「ごめんな」

先生が謝る必要なんて何もない。これは全て自分で選んだ道だ。最後にこうして会えただけでどれだけ幸運なことか。
それを伝えたくて、桂は持てる力全てを使って銀八を抱きしめ返した。

長く強い抱擁の後、少し視線を交わす。銀八が眼鏡を外し、桂の顎を指先で捉えた。そして、そうするのが当然のように、口づけを交わす。
こめかみが甘く痺れる。忘れかけていた感覚に、溺れそうになる。

「…会いたかったです、先生…」

桂がキスの合間に伝えることができたのは、たったそれだけの言葉だった。銀八はそれに呼応するように、何度も何度も桂の乾いた唇に吸いつく。
かろうじて存在する、消えかけの彼の命を確かめる。互いの息が切れ始めてから、銀八は口づけをやめて、折れそうに細い桂の首に縋るように抱きついた。
ああ、こんなことなら、もっと早く探し出しておくべきだった。

桂は銀八の真っ白い髪をそっと撫でる。ずっと前から、先生のふわふわの髪に触れてみたかった。
きっと綿菓子のように軽いんだろうと思っていたけど、やっぱりその通りだった、と思った。
少しだけ触れたことのある金時の髪とは、また少し違っている。桂は指先に全ての神経を集中させて、夢想していた髪の感触をしっかりと細胞に刻みこんだ。
そして誰にともなく、どうせ近いうちに死ぬのなら、今この瞬間に死なせてほしいと祈った。今なら恐怖も未練も生への執着も、全て手放して逝くことができる。

「………桂、死ぬの、怖いか?」

永遠とも一瞬ともつかない時間が経った後、銀八は桂の願いを読みとったかのように、静かにそう問うた。幸福なこの時間にはけして必要のない問いだ。
桂も唐突なその質問に怯えたような目をした。
しかし、銀八は桂の答えを待った。彼の頭はやっと、ひとつの結論に辿り着いたところだった。自分が何をすべきかが、もともと頭の中に眠っていたかのように、彼の
頭に閃いた。今日ここに来たのは、このためでしかないのだと気が付いた。彼の行き着いた答えはおそらく、どんな高名な哲学者にも出せない答えだった。

桂は震えながら小さく頷く。銀八には、それだけで充分だった。

「一緒に死のうか」

言葉にすると何て安っぽいのだろう。だけど俺の人生は三文芝居のようなものなのだ。ならば幕切れも、安っぽくて然るべきだ。
桂は短い人生を賭けて自分を想ってくれた。そんな人間は俺の人生で二人目だ。一人目は俺に教師という選択肢を与えて、とっとと死んでしまった。
できることならあの時、一緒に連れて行ってほしかったと思ったものだった。だけど今は、まだ間に合う。連れて行ってもらおうじゃねえか。

銀八は桂の髪を撫でながら、薄く笑った。桂は、大きな瞳に驚きの色を浮かべ、銀八を見詰めるばかりだった。それでも、少し間を置いてから、桂も微笑んだ。
そう言えば、桂のこんな穏やかな笑顔を、銀八は見たことがなかった。記憶の中の桂は、自分がそうさせていたからなのだが、いつも哀しい表情をしていた。
きっと桂も、自分のこんな顔は記憶にはなかったことだろう。まるでこの時のためにお互い大事に取っておいたみたいだ。

そしてふたりは、どちらからともなく顔を寄せて、もう一度幸福なキスをした。












後篇でほぼ完結
後半