兄が自宅を訪れている間、金時は、たまに足を運ぶ小さな喫茶店で手持無沙汰に時間を潰していた。
運ばれてきた珈琲に大量に投入した砂糖が、ぷかぷか表面に浮いている。一口飲んで、あまりの不味さに辟易した。
桂の淹れる珈琲が、いかに自分好みのものだったのかをこんな場所で再確認する羽目になるとは思いもしなかった。
こういう時、何をして待つのが正解なのだろう。
自分の好きな相手が、恐らく今までで唯一愛したであろう相手と数年ぶりに再会している時間。
買い物をするのも、散歩をするのも違う気がする。

当てどなく外に出てから二時間ばかりが過ぎていた。ただの教師と教え子の再会ではないのだから、頃合いというものがてんでわからなかった。
まだ時間はかかるだろうとため息を吐いたちょうどその時、テーブルの上に置いてあった携帯が鳴った。

「…はい」
『待たせてわりぃな。もう家出たから』
「え、…もう大丈夫なの?」
『ああ』

何だか兄の声は別人のように聞こえる。店のBGMと、若い女のおしゃべりがうるさすぎるからそう感じるのかもしれない。
しかし金時は、どことなく不穏な予感を感じた。

「そっか…近い内また来てやってよ」

その言葉に、銀八は沈黙で応えた。もう会いに来る気も、最期を看取るつもりもないのだと、金時は悟った。
彼らの間でどんな言葉や約束が交わされたのか、知る由もない。彼ら二人のことには、金時に介入する資格はなかった。

『金時』

兄が自分の名前を呼ぶ。最後に名を呼ばれたのはあまりにも遠い昔で、一瞬電話の相手が誰なのかも忘れかけた。

『すまねーな』

その言葉を最後に、電話はふつりと切れた。そして、その後二度と回線が繋がることはなかった。





















金時はがむしゃらに家路を急いだ。ワンメーターでもタクシーを使おうか真剣に考えたが、足を止めることも時間の無駄に思えた。
何度も兄に電話をかけたが、いたずらにコールが続くだけだった。明らかに意図的に電話に出ないようにしている。
以前は設定されていた留守番電話も解除されているようだ。それが更に金時の悪い予感を増長させた。

二人の間に何が起きたのか、具体的な想像をする余裕はなかった。
ただ、無数の虫が背中を這いずり回るような、最悪の感覚に突き動かされるまま、金時は自宅のマンションまで走った。
自分の部屋が1階にないことに苛立ちながら、走った後だからというだけではない理由でうるさく動く心臓を抑え、エレベーターに乗る。
一目散に部屋のドアを開け、靴を放り出すようにして脱ぎ捨て、桂のいるはずの部屋に向かった。
蹴り破る勢いでドアを開けると、そこには突然の物音に驚いた様子の桂の姿があった。

「桂…っ」

自分が家を出る前と変わらずに、桂がそこにいてくれたことに、金時は安堵を覚えた。

「どうかしたんですか…?」

桂は心配そうに言った。金時は息を切らしながら、桂の方へ歩み寄ろうとした。しかし、そこはかとない違和感が、彼の足を止めた。

何かが違う。何かが変化している。それも、もう取り返しのつかないような、重大な変化が起きている。金時ははっきりと感じとった。

それは恐らく、部屋に残った僅かな匂いだったり、ベッドのシーツの小さな乱れだったり、そういったものが折り重なって生じたものだろう。
金時が、そういった経験を詰み過ぎたせいでもある。だけど、気付いてしまった。他でもない桂から、確かに嗅ぎとれてしまう、目には見えない情痕に。
何もかもを受け入れたかのような、いつ死んでも文句はないとでも言いだしそうな、桂の充ち足りた穏やかな表情に。

 ああ、これが、絶望というものか。

金時の表情を見て、桂もまた、彼が気付いてしまった、ということに気付いた。それでも、死を受容した彼には、動揺や後悔のかけらもないようだった。

「桂……お前」

桂はそっと眼を伏せた。そして、「ごめんなさい、金時さん」とつぶやいた。
彼は兄を死に至らしめる毒を、最後に兄に贈ったのだ。身体を繋げることで、兄もまた、桂と同じ毒を有した。その現実は金時の正気を奪いそうなほどのものだった。

「そんなん、ありかよ…!」

気付けば金時は涙を流していた。悔しさや悲しみが、堰を切って溢れ出てくる。
近く唯一の肉親である兄が死んでいくことも、桂が心中の相手に己を選ばなかったことも、同じぐらい辛かった。
桂が一緒に死んでくれと言うなら、俺は喜んでそうしたのに。
だけど、いくら桂の傍で彼を支えたところで、兄には適わないだろうということにも、心の奥底では気付いていた。
気付かないふりをして、桂の残り少ない命を愛でてきたのだ。

「…金時さん」

桂は、目の前で涙を流す金時を、真っ直ぐな瞳で見詰めて、言った。

「今ここで、金時さんの手で、俺を殺してくれませんか」

凡そ死を希う者とは思えぬ、子供を宥めるような優しい声だった。金時は息を呑んだ。

「俺は、あなたから何もかも奪った。もう、俺の命ぐらいしかあなたに返せるものはない」

金時は何も言えず、ただ泣き濡れた瞳で桂を凝視した。
桂は慈愛に満ちた、今までにないほどに優しい、だけど金時への罪の意識からか、同時にとても悲しそうな顔をしている。
金時は、見たことのない母親の顔を想い浮かべた。今ここで、顔も名も知らぬ生みの母を思い出すなど、どうかしている。
だがきっと、我が子に手をかけてほしいと望む親の末期の顔は、こんなようなものなのだろうと金時は思った。

「…あなたに殺してほしいんです。最後には、あなたの顔を見ていたい」

金時は諦めたように桂から顔を背け、重く深く息をついた。
桂の短い人生を自らの手で終えることについて考えようとした。だけどそんな力はどこにも残ってはいなかった。自分が空っぽになってしまったように感じた。

そして、ふらりと、桂のもとへ導かれるようにして歩み寄った。































「すまねーな」

銀八が双子の弟への最後の言葉に選んだのは、まっすぐな謝罪の文句だった。
自分が先刻ほかならぬ弟の部屋で行った行為についての謝罪であることはもちろん、これまでにしてきた心ない行い、投げかけてきたひどい言葉、
薄汚い夜の世界に置いてきぼりにしてしまったこと、全てに向けての謝罪だった。
そして、再び金時をこれまで以上に孤独の果てに追いやってしまう結果になった。

うりふたつの顔を持った、この世でたったひとりの血のつながった金時とは、何がどうあってもふたりで生きて行くのが天命なのだと、
人生のある一定の時期まではそう信じ込んでいた。
だからこそ、普通の兄弟以上の繋がりを、ある程度年齢を重ねるまで求めてしまった。金時はそんな不甲斐ない兄をとことん受容し、限りなく愛してくれていた。
妙な倫理観と罪悪感が芽生えたのは、教師という真っ当な道を志してからだった。弟に身体も心も依存している自分がとても恐ろしくなって、逃げ出したのだ。
だけど結局は、弟ではない別の人間に、同じように依存してしまった。自分をつくづく学習能力のない人間だと嘆く。

本当は弟の他にも、最後に伝えたい言葉がある人間が大勢いる。妻や、生徒や、旧友。だがそんなことをする資格はないと思った。
だから、金時との電話を一方的に切ってすぐ、橋の上から携帯を投げた。茜色に染まる淀んだ川に、一切の縁が沈んでいく。
残ったのは、記憶と、少しの金と、致死的なウイルスに侵されているはずの己の四肢のみだ。

とても身勝手な選択だということは、頭ではわかっている。だがこうすることが本望だった、と銀八は自らを肯定した。桂を二度失うことは、耐えられなかった。

会いに行くと決めた時に、全てを捨てる覚悟をした。桂をもしも救うことができるなら、あとはもう何もかもを手放してもいい。銀八は今、間違いなく幸福だった。
それでも、桂ともっと普通に愛しあえていたなら、と考える。誰も傷つけることなく、ふたりで幸せに生きることができたなら。
たとえ桂が先立つとしても、看取ってやることができたなら。

生きている姿の桂に会うことは、もうないだろう。細い髪を皮膚に感じるこそばゆい感覚、低い体温、長いまつげの先、それら全てはもう、
銀八から一番遠いところにある。欲を言うなれば、最後の最後まで、桂の感覚を味わいたかった。
あの世でもう一度、なんて世迷言を言うつもりは更々ない。死の後は虚無のみだ。銀八は、その虚無に一緒に落ちることを選んだだけだ。
さっきの戯れで、俺と桂は離別したのだ。だけど、彼の細胞にも血肉にも、桂の一部だった毒がゆっくり回り、その機能を奪っていく。
自分の肉体が動きを完全に止める時まで、本当の意味での離別ではない。

銀八は上着のポケットから煙草を取り出し、火を点けた。セブンスターの惑うような香りが広がる。
風の音と、時たま背後を通り過ぎる自転車のペダルが軋む音がする。銀八は、彼を取り囲む世界をきちんと愛していた。
だが矢張り、その枠の外にいながら、桂小太郎という存在は彼の世界そのものだった。きっと吉田がいれば銀八を責めるだろう。誰にも歓迎はされない選択をした。

願わくば、自分が置いていく人々には、自分を憎み抜いてもすぐに忘却しても構わないから、幸福に穏やかに生き抜いてほしい。
俺はこんなにも幸せな幕切れを迎えられたのだから。

ほんの少し、寒くなってきた。銀八は煙草を吸い終えると、行く宛てのない道を静かに歩き始めた。





















金時は、震える両手をそっと桂の首から離した。
酸素を求めて激しく咳き込む桂を、ただ茫然と見ていた。
ああ、まだ生きようとしている。
そう思うと、金時はようやく息を吐くことができた。

「…どうして」

息の整った桂は、金時にそれだけを問うた。もっとうらみがましい目を向けられるかと思っていたが、彼の目は悲しそうな色を携えているだけだった。

「やっぱできねぇ」

金時は無理に微笑んで、答えた。
首にかけた手に力を込めていく内に、赤く変色していく桂の顔や、苦しげに寄せられた眉、反射的に抵抗しようとする彼の小さな手が、まだ必死に生きようとしていた。
それが掌で感じとられると、止まっていた金時の思考はかちりと音を立て動きだした。
愛した人の精一杯の生命活動を、神でも何でもない自分なんかの手が奪うのは絶対に間違いだ、と金時は確信した。
そして、いくら桂の願いでも、そこまで思い通りにことを運んでやる義理はない。
こんな仕打ちをされたのだから、少しばかり己のエゴを通しても許されるだろう。桂が自然にその動きを止めるまでは、これまで通り、一緒にいる。
金時は桂の首を締めながら、静かにそう決意したのだった。

「お前にはもうちょっと、俺に付き合ってもらうわ」

桂の瞳孔が少しだけ開いたように見えた。金時の意図をどこまで理解したのかはわからないが、桂は今ここで命を絶つということについては諦めたようだった。
そして姿勢を僅かに正してから、金時の目を見ずに、
「そんなに優しいと、損ばかりですよ」
と言った。

俺は優しいのだろうか、と金時はふと考えた。生かすことを優しさだと捉えるのなら、やはりこいつはまだ生きていたいのだ。
これでよかった、と金時は心から思った。

「そうだな。損しかしてねぇよ」

そう言うと、桂はすまなさそうに笑って見せた。金時も笑って、桂の額に自分の額を合わせた。それは祈りの姿にも似ていた。

あとどのぐらいの時間が残されているのかわからない。それでも、これ以上傷つくことも、心残りも互いにもうないはずだ。
たとえ損ばかりしてきたとしても、桂の人生の最後に自分が彩を加えられるのなら、それだけで見返りは充分だ。

ああ、ほんとに、馬鹿みてぇに、俺はこいつが好きなんだなあ。

どんな仕打ちを受けても、どんなに魂を傷つけても、身を砕いてでも、最後まで護りたいと希うなんて。
偽物の愛を売って生きて来た自分が、こんな風になれるだなんて、思いも寄らなかった。

桂は静かに涙を落した。どんな種類の涙なのか、金時にはわからない。だけど自分のために流された涙なのだということを悟る。
それが全身の血液の温度をゆるやかに上昇させる。
この感覚そのものが愛なのかもしれない、と金時は生まれて初めてそんなことを思った。












すんませんまだ続きます。次はたぶんエピローグ。
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