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金時は、二日ぶりの煙草に火を点け、ゆっくりと立ち上る煙をぼんやりと見ていた。
自分の吐いた煙草の煙と、桂の空になった身体を燃やす煙を、寒空に一緒に浮かべる。
火葬場のどの煙突から出る煙が、桂のそれなのかはわからなかったが、とにかく天国へ向かうぎりぎりまで見送ってやりたくて、煙を送った。

よく身内が死んだ人間は、葬儀が終わるまでは忙しくて悲しみに浸る暇がないと言うが、それは本当だった。
金時は、桂が静かに息を引き取ったその瞬間から、様々な責務に追われ続け、今までにないほど忙しく動き続けていた。

容体が変わって、病院へ運んでからは早かった。桂は一度も眼を覚まさずに亡くなった。
心臓が止まった、と言われても、動いていた時とあまりにも変わらない姿だから、何となく実感が持てなかった。
また暫くすれば、このバタバタが終わって家に帰れば、そこに桂はいるだろうという気分だった。

用意がいいもので、桂が死んですぐに病院側の手配した葬儀屋が駆けつけてきた。
そこからは、ほとんど葬儀屋の言うなりに事が運ばれていった。家族も親族もいない桂だったが、坂本や西郷はもちろん、店の従業員や、
昼には仕事があるであろう女性客たちも多く通夜に来てくれた。
日輪と晴太は、通夜から葬儀までのあらゆることを手伝ってくれた。そればかりか、葬儀代だと言って現金百万をぽんと金時に手渡した。
友人らしき人間はほとんど来なかったが、一人だけ、黒髪の眼つきの鋭い若い男が通夜に訪れた。
珍しく思い、金時が話しかけると、彼は一瞬たじろいだように表情と態度を強張らせた。

「…銀八、先生の弟さんですか」
「…ああ、うん、そう。坂田金時。えーと、お兄さんは、桂の…友達かな?」
「同級生です。今回のことは、志村から聞いて…あんたのことも、聞いてます」

どうやら桂と同居していたことは知っているらしい。そこまで桂と親交があったようには見えないが、わざわざ通夜に出向いてくれるあたり、
学生時代は仲がよかったのかもしれない。
それにしては、どこか複雑な、気難しい顔をしていた。ただの友人、というだけではなさそうな。
過去に何かあったのかもしれないが、金時は詮索しなかった。ただ、来てくれてどうもね、と感謝の言葉だけを投げかけた。
何があったとしても、こうして桂を悼みに来てくれたというだけでいい。それで全ては清算されるのだ。

後で弔問表を見ると、一人見慣れない、土方という名前があって、それが彼の名前だとすぐにわかった。
新八にこっそりと彼のことを聞くと、確かに同級生だが、桂とは犬猿の仲のグループの一人で、来るとは思っていなかったと言った。
今は警察学校に通っていて、今年の春から警官になるらしい。

新八の姉、つまり兄嫁は来ていなかった。夫が蒸発してしまった後なのだから、それどころではないのも当然だ。
何より、彼女の知るところではないが、夫が姿を消した原因は桂なのだから、来ない方がいい。

 あの日__兄と最後に会った日から、気付けば三カ月ほどが経っていた。
あの日以来、兄は消息を絶った。兄嫁から何度も居場所に心当たりがないか尋ねられたが、金時は知らないとしか答えなかった。
嘘ではないが、本当のことを全て話したというわけでもない。銀八が姿を消した理由を話せば、彼女は発狂してしまうだろう。
あれから彼女は、気の毒なことにすっかりふさぎこんでいるらしいが、金時にはどうすることもできなかった。

兄はどうしているのだろう、と金時は今になって初めて考えた。
桂を抱いたからと言って、感染率は100%ではない。彼らの望み通りの結末にはならないかもしれない。
もし感染していなかったとしても、兄は一人で生きていくのだろう。だがそれもいつまで続くのか。
いつになるかわからない死が訪れるまで、兄は桂を想い続けていけるだろうか。そこまで考えて、金時は徐に煙草を消した。
自分の明日のことさえ不明瞭な状態で、縁を切られた相手のことについて思い悩むのは馬鹿馬鹿しいと気付いたからだ。

自分は果して、これまでの人生の中で真剣に愛した二人から去られてしまって、この先どう生きていくのか。
もう偽物の愛を商売道具にはできないということは、ぼんやりとだがわかる。年だって若くない。自分にはもう何もない。
どうにかして生きていったとしても、誰かをもう一度愛せる自信はない。金時にとって愛は、いつも見返りのないものだ。
気付けばいつも、誰かを愛した後はひとりになる。

この虚ろな心を抱えて生きていくくらいなら、いっそ俺もこのまま死んじまおうか。
そしたら、あいつに会えるかもしれないし、運が良ければ兄にも会えるかもしれない。葬儀とか、遺品整理とか、いろんなことが片付いたら、それもいいかもしれない。

「…もしそうしたら、怒られんのかな」

立ち上る煙に向かって尋ねてみたが、当然答えは聞こえなかった。

























納骨が終わり、坂本や日輪たちに一通り礼を述べて、一緒にいようかと言う彼らの申し出を丁重に断り、金時は骨壷を抱えて一人タクシーで家路についた。
誰もいない家に帰るのは久しぶりのことだった。まだ仏壇も墓もどうするか決めていない。そもそも、自分の生き死にさえ決めていない。
生きるにしても、死ぬにしても、考えて決定しなければならないことが多すぎて、ひどく億劫だった。
これから訪れる多くの寂寞や、孤独や、苦悩について何となく予想してしまうのも、すべてのことが億劫になるひとつの要因だった。
感情が消えてしまえばいいのに、と金時は真剣に願った。そういえば、まだ涙のひとつも流していない。もしかしたら、もう既に感情は死んでしまっているのかもしれなかった。
そう思うと、金時はどこか安堵さえ覚えた。

とりあえず、今日の残りの時間だけは、骨になった桂と過ごそうと考えた。
桂が長く過ごした部屋に帰そう。そう考えて、家に着いて着替えるより先に、桂の部屋に向かった。

桂のいない部屋は、ひどく冷たい印象だった。まるで赤の他人の部屋に入ったかのようだった。それでも胸に抱えた桂は、幾ばくかでもほっとしているだろうか。

空虚な気持ちのまま、ベッドに骨壷をそっと置いた。隣に腰掛け、暫く何も考えなかった。
ベッドは一人分の重みしか軋まない。その事実を認識しても、悲しみは産声を上げなかった。

何気なく眼にした机の上に、桂がいつも読んでいた本があった。歴史物で、とても分厚い本だった。
何か欲しいものはないかと聞いた時、唯一桂がリクエストしたものだ。昔から読んでみたかった本だという。
手に取ってみると、やはりずしりと重かった。体調のいい時は決まって読書をしていたが、桂は全て読み切ることができたのだろうか。

本を開いてみると、何百枚もの薄い紙の隙間から、何かが床に落ちた。

「…手紙?」

白い封筒には、自分の名前が記されていた。いつの間にこんなものをしたためていたのだろう。不思議に思いながら封筒を開け、手紙に眼を通す。
桂の文字を目にするのは、考えてみれば初めてのことだった。どこか固く強張った感じの、真面目さが伝わる筆跡は、桂その人を表しているような印象を与える。
手紙は、慇懃な出だしで始まっていた。








『拝啓 坂田金時様



手紙なんて書くのは初めてで、何から書けばいいか、悩んでいるままだけど、結局書き始めることにしました。
まだ手紙を書けるうちに、直接伝えることができればいいのですが、口下手なので、やはり手紙が最善策だと思って、筆を執っています。

よく使われる言葉ですが、あなたがこの手紙を読む頃、僕はもうこの世にはいないでしょう。
僕が死んでから、どれくらいの時間が経っているのかはわかりませんが、とにかくこうしてあなたがこの手紙を見付け、読んでくれていることに感謝します。

僕は人生の大半、死ぬことばかり考えて過ごしていました。高校生になるまでは、完璧な優等生を演じて、そんな自分を憐れみ、周囲を見下していました。
あなたのお兄さんとは、最初はとてもよくない関係でした。弱みに付け込まれ、無理やりに関係を強いられていた。ずいぶん酷い目に遭わされました。
その頃が、一番死にたいと願っていた時期でした。色々あって、結局銀八先生に心を奪われてしまっても、父の破産と自殺で一緒にいることができなくなって、
より一層自分が惨めになり、死にたいというよりも、どっちでもいい、という投げやりな気持ちで、とにかく借金を返すためだけに日々を生きていました。
家や家具が抵当に入っても、まだ全額返済には至らなかった。母にはずっと前から間男がいて、僕は母にその男と生きるよう言いました。
どのみちろくに働いたこともない母に、稼ぐ能力はない。僕一人で返した方が手っ取り早いと思ったのです。生き死にさえどっちでもいいと思うような状態でしたから、
体を売って稼ぐことに何の抵抗もありませんでした。自分の容姿にも、男とのセックスにも自信がありましたし、実際に僕はよく稼ぎました。

初めてのお客さんは坂本さんでした。坂本さんは、始めから今まで、とうとう僕に指一本触れることはありませんでした。
ホストクラブへの勧誘が目的だったと思うのですが、どうしてだかそれもされず、数年間ただ生活と、精神面の援助をして頂けました。
極力僕は坂本さんに、嫌なことや愚痴なんかを零さずにいたのですが、坂本さんは何故か全てを見透かしているみたいに、僕がその時一番欲しい言葉をそっと
プレゼントしてくれました。本当に不思議で、素敵な人でした。
だから、エイズに感染したことがわかった時も、坂本さんに頼ってしまったのです。

坂本さんはたぶん、大方の予想はついていたのでしょう。何も聞かずに、店を辞めたばかりで寝場所に困っていたところだった僕を、自宅に居候させてくれました。
僕がその時気がかりだったことは、ただ借金の返済のことでした。あともう少しのところまで来ていたのに、ここに来て返済が滞ることは何としてでも避けたかった。
それさえ終われば、気兼ねなく死ねると思いました。借金のことを抜きにすれば、僕は寧ろ死に至る病に感染したことに幸運さえ覚えていました。
これでやっと楽になれるんだと、僕はまずそう感じた。そのあとで、自分の抱えている借金のことを思い出し、路頭に迷い始めたのです。

以前にも話したことがありますね。坂本さんは、これにはとても驚いたのですが、僕の残りの借金をぽんと返してしまいました。
そして、あなたを紹介してくれた。この時に、病気のことを話していれば、きっと適切な治療を受けられるように手配してくれたでしょう。
だけど僕は、そんなことはもったいないと思ったんです。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないし、何より僕はこの時やっぱりまだ死にたかった。
いろんなことに絶望し切っていて、この先に何かいいことが、生きようと思えるようなことが訪れるなんて思いもよらなかったんです。
だから、せめてこの体が使い物にならなくなるまでは、坂本さんのために働こうと固く誓いました。

でも、今はその選択をひどく後悔しています。あなたの下で働くようになって、あなたと一緒に生活するようになって、とても楽しかったから。

始めは、先生に瓜二つのあなたの顔に混乱していました。封印していたあの頃の感情や記憶が、抑えきれなくなりそうで、怖かった。
だけど、すぐにあなたと先生は全然違う人だとわかった。あなたは一見堕落しきっていて、裏の世界でのらりくらりと自分勝手に生きているようで、その実本当に優しく、
面倒見がよくて、困っている人を放っておけない性質なんだと。その上怖がりで、見栄っ張りで、無防備。
こんな人がどうしてこんなところにいるんだろうって、ずっと不思議でした。

結局、あなたの生い立ちについては詳しく聞かせてもらえませんでしたね。
僕よりも何倍も辛い思いをしてきたはずなのに、あなたはまっすぐな人だった。
そう見せないようにしているだけで、とても芯のしっかりとした、誰よりも優しくて強い人。
あなたに愛してもらったことが、僕の人生で一番幸せなことでした。
あなたに出会ってから、初めて楽しく日々を過ごせました。演技も遠慮も何もない、ありのままの自分でいることができました。
初めて、もっと生きていたいと思うことができました。

時々、あなたともっともっと前に出会っていたらどうなったんだろう、と思います。
先生と出会うより先に、あなたに出会っていたとしたら。
僕は高校生で、あなたはホストで…でも、よく考えてみれば、高校生とホストに縁なんてないし、あったとしてもこんな風にはなりえなかったと思います。
親の借金のために体を売ったから、病気になったから、あなたと出会えたんです。そう思うと、悪くない人生だったなと思います。

あなたほどではないけど、似たような男を一人知っています。過去に、彼の優しさと勇気を踏みにじって、先生を選んでしまったこともありました。
今回も結局、同じようなことをしてしまいました。どうして僕はいつも、優しい人を振り切って先生を選んでしまうんでしょう。
まるで自分の意識の外側で、選択がなされているように思います。

どうか、最後まで愚かだった僕を許してください。僕はあなたがとても好きだった。
僕はたぶん天国にはいません。だから、あなたが死んだ後も会うことはないでしょう。
僕のことは忘れてしまって、女性でも男性でも、日本人でも外国人でも、あなたを心の底から愛して、尽くしてくれる人に巡り合い、長い人生をゆっくりと共に歩んでください。
僕の経験から言えば、死のうとしたその時に、死にたくないと思えるほどの人に出会ってしまうものです。
生きてください。たっぷりと長く生きてください。

本当に、心から、ありがとうございました。






  桂 小太郎』












手紙を読み終えて最初に感じたのは、頬を伝う熱さだった。それが涙によるものだとは俄かに信じがたいほど、ぼたぼたと零れ落ちるそれは高い温度だった。
血が目から落ちているみたいだった。喉の奥が張り付いて、息がつまり、唇が震える。

金時は、もう手紙を見ることもできなかった。やはり感情は死んでなどおらず、ただ深い眠りに就いていただけだった。

あんなにも愛した人間がもうどこにもいない、という事実が、金時の全身を貫き、やり場のない愛情が出口を求めて彷徨っている。
悲しみややるせなさが、洪水になって押し寄せてくる。

金時は声を出して泣いた。手紙は彼の掌の中で皺くちゃになってしまった。聞く者のいない部屋なのに、金時は迫上がる嗚咽を押し殺そうとして、だけどうまくいかずに
呻きのような声が次から次へと漏れ出ていった。頭を膝につけ、手紙を持つ手を頭の上に翳し、祈りのような恰好になりながら、金時は泣き続けた。
生きろってのか、と金時は頭の中で桂に投げかけた。

こんな手紙は卑怯だ。お前の頼みを俺が断れないのを知ってて、生きろだなんて、そんなのってないだろう。
お前はもうどこにもいないのに。お前はもう死んじまってるのに。だけど俺はこれでもう、自分から死ぬことはできなくなった。死んだってお前は俺に会ってもくれない。
こんな仕打ちはない。俺もかつてのお前のように、あるいはお前を抱いた兄のように、死を待ち焦がれてひとりぼっちで生きていくしかないだなんて。

「…っかつらぁっ…」

この涙が止まることがあるのだろうか。この悲しみが終わる時が来るのだろうか。
それでも、乾いていく喉が水を欲している。体はまだ生きようとしている。俺が桂を殺さなかったように、俺は俺を生かそうとしている。
その現実が新たな悲しみを呼び、涙を産んだ。

金時は枯れた声で何度も桂の名を呼んだ。体に、脳に、刻み込むように呼んだ。これで最後だと思いながら呼んだ。
この名前が、人生で最後に愛した人の名前になるだろう、と思いながら。

隣に置かれた四角い骨壺だけが、むせび泣く男をいつまでも見守っていた。


























最後にちょっと悪あがきという名の小話…
エピローグ