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午前5時、勤めを終えた坂田金時は店のオーナーであり悪友でもある坂本辰馬に電話をかけた。


『なんじゃ銀時』

「もう俺付き人とかいいから」


金時は開口一番にぶっきらぼうな口調でそう言い放った。
つい先程、あまりに使えないもう何代目かも知れぬ付き人をぶん殴ってクビにしたところだ。
今頃彼は陽の昇りきらない薄暗い道路のゴミ袋の上に伸びていることだろう。そのまま収集されて骨ごと砕かれろ、と金時は呪詛をかけた。


『またクビにしたんか』

「お前さ、人選ばなさすぎ。俺の付き人なんざ誰でも勤まると思ってんだろ。下手な奴付けられるぐれぇならもういいから」


金時は苛立ちを隠しきれていない声であくまで淡々と言った。
やけに広い部屋は薄暗く、2日前に泊まっていった女の甘ったるい香水の匂いももう消えた。


『わかった。丁度一人、よさそうな子がうちに来ることになったき、その子を最後にすりゃあええ』

「人の話聞いてた?もういらねぇっつってんだよ。こんなんなら金丸のがまだマシだった」

『その子のためじゃと思うて、頼むわ』


坂本の電話越しでも分かるいつになく暗い声に、金時は怒りを削がれた。
何だか早朝から、仮にも飯を食わせて貰っているオーナーに八つ当たりをしている自分が情けなく思えてさえきた。
ちっと舌打ちをすることでお茶を濁し、金時は最後の付き人を雇うことを承諾した。
酒を呷りたい気分だったが、自重してダブルベッドに勢いよく背中を預け、そのまま遅い眠りに就いた。





次の夜、かぶき町のど真ん中にある職場に出勤したとき、店は坂本が来ていることで幾分緊張した空気が充満していた。
金時が店に入ると、後輩やボーイが一斉に頭を下げ挨拶をする。
はよー、と気だるげに生返事を返し坂本の座るVIPルームに入ると、そこには早速新しい付き人の姿があった。
真っ黒な髪を一つに結った、折れそうに細い印象の男か女かも分からない新しい付き人は、光のない暗い目を伏せていた。
その態度と、うつむき加減のせいで前髪が作り出している影のせいで、金時は根暗という印象を受け、こっそり幻滅した。
これじゃあまるで使い物になりそうにもない。裏社会に足を突っ込んでおいて人見知りとは笑わせるではないか。


「おお、金時。小太郎くん、こいつがわしんところのナンバーワンホストの坂田金時じゃ。今日からおんしのボスぜよ」


珍しく金時の名前を間違えなかった坂本に声をかけられ、小太郎と呼ばれたどうやら男らしい付き人は、ようやくゆっくりと虚ろな目で金時の方を見た。
驚いたことに、一切の光を失った彼の瞳は、その視界に金時を捉えて直ぐに、みるみると明るく開かれていったのだ。
まるで洞窟から陽の光を見つけたときのように、開けたのだ。
驚愕が彼の瞳をそんな風にしたのだということに、金時は数秒ほどで気がついた。
彼の純粋と成熟とが巧みに折り重なった端正な顔に浮かぶ表情ごと全て、驚愕という二文字に支配されていた。
そして、薄く血色の悪い唇から紡がれた単語を金時は訝しく思う。



「先生」



初めて聞く彼の声は、震えていて涙声のように聞こえた。先生?果たして俺に生徒なぞいただろうか。
はたと金時は、自分と全く同じ顔を持つ先生と呼ばれるべき存在を思い出した。
普通ならば、銀八の知り合いなのかと尋ねて会話を広げようとするだろう。
しかし、金時には何となくそれが禁句のように思えた。彼の声があまりにも悲痛に満ちていたから。
単なる錯覚なのかもしれないが、それでも仕事上、洞察力は鍛え上げられている方である。


「お?まさかおんしら知り合いか?」

「なわけねーだろ、初対面だよ。で、アンタ名前は?」


金時の問いにたっぷり余白を置いてから、彼は今度は凛とした表情と姿勢を創り上げた。反して、瞳の光はしゅるしゅると消えていった。


「桂小太郎といいます。これからよろしくお願いします、金時さん」


桂はちょっと拍子抜けするくらいに深くお辞儀をした。金時は、うん、よろしく、と間延びした声で返した。
坂本は桂に店の掃除を手伝うよう言いつけ、ソファに座り金時にも倣うよう促した。


「アイツ、何者?どこで拾ったの」

「半年以上前にお得意先で知りおうた。じゃが、商売云々でなくただ気がかりでの」


坂本の「お得意先」と言うのは所謂ゲイ専門のデリヘルのことだ。
そこから若手を拾ってくることはよくあったが、金時の付き人にそこを出身とする者はいなかった。


「話し相手をするぐらいのもんじゃったが、そういう存在があの子には必要かと思うて。実際わしと会うときは心を開いてくれとった。
__じゃが最近になって急に、わけは言えんがもうああいう商売はできんくなったと言いおって」

「単におっさんに抱かれんのが嫌になったんだろ。で、何でまたホストじゃなく俺の付き人?あんな上玉ほっとくなんてお前らしくもねぇ」

「うん、何て言うかあの子にホストは無理じゃろう。ボーイでもさせようか思うたが、ちょうど空き枠が出来たき。寝床にも困らんし」

「…は?」

「金時、頼むわ。今はうちで預かっとるが、おんしにこれからかかりきりになるわけじゃき、おんしのとこに置いてやってくれ。もちろん報酬は別に渡す」


金時は呆れて何も言えなかった。
確かに部屋は余っているが、初めて会った得体の知れない若造と同居だなんて無理に決まっている。今までだってそんなことは一度もなかった。


「ふっざけんなよ、そんなんできるわけねぇだろうが!」

「金時、これは命令でも何でもない。今は一人の友人としておんしに頼んどる。この通りじゃ」


坂本は膝に手をついて金時に負けず劣らずの癖毛頭を下げた。これには金時もたじろいだ。
坂本が頭を下げるなど滅多なことではない。あの桂という青年がそうさせるのか。
金時は盛大に溜息を吐き、「わかったよ」と渋々といった口調で答えた。仮にも長年世話になっている男の、一世一代とも取れる頼みである。
坂本は金時に思いっきり抱きつき、大声で感謝の言葉を並べた。折角正しく言えていた金時の名前も、あっさり「銀時」という呼び名に戻ってしまっていた。

坂本の頼みということもあるが、金時にはあの「先生」という単語が気に掛かっていた。
探りを入れる気もないが、双子の兄であり今は教職に就いている銀八の教え子だというのはまず間違いないだろう。
狭いようで広い世界で、自分と遠くても繋がりがあるまだ若い男の宿を取り上げるのは、少し無粋な気がした。
それに、何より銀八の生徒だ。
この世でたった一人だけの、血の繋がった兄の教え子。
こんなきな臭い世界に飛び込まざるを得なかったということは、けして恵まれた境遇ではなかったのだろう。
銀八が彼の生徒を安全に送り出せなかったのなら、その尻ぬぐいは弟である自分がしてやりたい。
女は連れ込みづらくなるかな、と金時は少し苦々しく思ったが、それも兄のためならまあいいか、とも思った。
つくづくブラコンだなぁ、俺、とも。



























同伴明けの気だるい夕刻、常ならば金時は女のくちづけで微睡みから醒める。
薄暗い部屋と甘く柔らかい女の唇、沈みかけた陽光、それらは金時の快い目覚めに不可欠な要素である。
シーツの名残を乾いた肌に感じながらゆっくりと身を起こし、女と睦言を交わす一時が金時は好きだった。
しかし今日は、そのどれもを引き剥がされた何とも目覚めの悪い夕方となった。
カッと一斉に部屋中の灯りが点き、瞼ごしにもわかる眩しさで金時の脳は揺さぶり起こされた。


「金時さん。起床時刻です」


目の前にあるのは女の顔、ではなく、女顔の男。隣で眠っていた上客も、何なの、と苛立ちながら一糸纏わぬ身体を起こした。


「なっ…!?」

「起きる時間です。あと1時間で出勤ですよ」

「何よ、誰この子?」

「お客様、急いでお着替えください。金時さんは仕事があります」


渋る客に手早く着替えを渡すと、新しい付き人である桂小太郎はシーツを無遠慮に引っぺがし、金時を半ば引き摺る形で浴室に押し込んだ。
寝ぼけた頭で何が何だかわかっていないまま、ともかく熱いシャワーを金時は浴びることにした。
弾ける水音の合間から、女の金切り声が聞こえる。恐らく桂に追い出されているところだろう。
止める選択肢もあったが、後で謝ろうと金時は横着をした。
段々冴え始める頭が、昨夜のことをじわじわと思い出し始める。
上客が来たおかげで昨夜はドン・ペリーニョを浴びるほど飲むことができ、当然閉店時刻には金時の頭は宙に浮いていた。
接待中は新人の付き人に仕事を教える暇など殆どなく、帰り際に彼を見つけ合い鍵を投げつけ、明日は4時に起こして、とだけ回らない舌で告げた覚えがある。
浴室の簡易時計を見ると4時5分。きっかり4時に起こしていただけたようだ。
それにしてもだ。いくら4時に起こせと言ったからといって、あんなお母さんみたいな起こし方はアリか?
しかも隣には裸の女。空気を読め空気を。せめてそっと起こすとか、何かあるだろいろいろ!
金時はデオドラントを塗りながら苛立ちを覚えた。

浴室を出ると、脱衣場には綺麗にアイロンがけされた赤いシャツと下着が清潔なタオルと一緒に畳んであった。
洗面台には新品の歯ブラシとストロベリー・フレーバーの歯磨き粉、愛用のシャネルのエゴイスト・プラチナムが整然と並んでいる。
どうやら掃除まで昨晩の内にやっておいてくれたらしく、鏡に曇りはひとつだってなかった。


「…使えるんだか使えねぇんだか…」


ひとつ呟くと、単純にも先程の苛立ちは半減した。頭ごなしに怒鳴ってやるつもりだったが、落ち着いて話せばわかってくれるだろうと冷静に思った。





「あのな、…桂くん?」

「少し待ってください、今軽食を準備しているので」

「…あ、はい…」


何と言うかこの青年の口調には、有無を言わせない力がある。
まるで口うるさい母親のようだ。もっとも、いたことがないのであくまで想像の範疇だが。
上半身には何も身につけていない状態で、金時は革のソファにどっかりと腰を据えた。


「お待たせしました」


桂は牛乳とコーヒーと砂糖瓶、それにサンドイッチをトレイに載せ運んできた。


「ミルクは半分、砂糖は3つですか?」

「…うん、何でわかったの?すごいね」

「……坂本さんに聞きました」


そう言うと淡々と桂はコーヒーを作り、金時に手渡した。
そんな細かいとこまで調査してたのか、と金時は感心した。うっかり本題を忘れかけそうになった。


「あのな、確かに俺は今日4時に起こせって言ったけど。あの起こし方はマズいんじゃねぇ?」

「何故ですか?坂本さんからは無理にでも起こすよう言われていますが」

「いや確かに俺は低血圧だよ、ものすっごいね。俺が独り寝のときはいいとしてさ、客がいるときは客に気ぃ遣えって話。
アレは俺のお得意さんなのよ、怒らしちゃ元も子もねーだろ?」

金時は子供に説教をするような調子で言い、コーヒーを飲んだ。驚くほど旨かった。


「わかりました。ではこれからはお客様がいらっしゃるときはそっと起こします」

「うん、そーして」


物分かりがよくて助かった、と金時はほっと息を吐いた。と同時に、急に煙草が吸いたくなった。
桂はと言うと、話が終わるや否や金時に背を向け、せっせと床に散らばった昨夜女に貰ったアクセサリーや服を片付け始めていた。
テーブルの上に転がったシガレットケースに手を伸ばす。純金のそれは例によって誰かに贈られたものだった。
一本取り出し、床に落ちていたジッポを拾い上げて火を点ける。
じり、と髪の燃える音がして、口と鼻孔に独特の甘い香りが広がり、それから紫煙は上を目指して生き物のように這っていった。

びくっと一瞬、用事をしていた桂の背中が反った。
もしかして喘息持ちで煙草は無理だとか言わないよな、と金時は訝しんだ。
桂は煙を背に受けたまま動かない。不思議な心持ちで金時は甘いコーヒーを啜った。


「どしたの、桂くん」


いたたまれず声を掛けると、次は細い肩が竦んだ。



「…セブンスター」



聞き覚えのあるトーンで桂が呟く。
どこで聞いたんだっけ、と金時はまだ殆ど会話らしい会話を交わしていない彼と接触した時間を必死で思い出す。
思い出しかけたときには、桂は此方を見ていた。痩けた頬に真っ黒の大きな瞳だけが炯々と光っている。
時折覗かせるその強い光はどこが光源なのだろう。気圧されそうだ、と金時は思った。


「セブンスター…なんですね、あなたも」

「…ん?ああ、うん。…桂くんも、同じ銘柄?」

「……ええ」


嘘だ、と金時は直ぐに分かった。同じどころか、桂は煙草を吸わないだろう。
他愛もない些細な、しかし不明瞭な嘘。そして踏み入れてはいけない、そんな予感を喚起させる嘘。


「金時さん、俺のことはなるべく呼び捨てで呼んでもらえますか。何だか落ち着かなくて、桂君なんて」

「それはいいけど。何?桂?こたろー?」

「桂で。下の名前、好きじゃないんです」


そう言うと桂は不器用に微笑んで見せた。何だ、笑うとかわいーじゃん、と金時は口説き文句の常套句を思い浮かべた。










今気付いたけど私ホストのこと何も知らない ホスト雑誌でも読もうかな