7回のコール音の後、相手はやっと電話に出た。
こんな真っ昼間に起きていることの方が珍しい金時よりも、電話越しの声は気怠げに聞こえてきた。


「久しぶり、銀ちゃん」

『ああ』


煙草に火を点けようとするが、高層マンションのベランダに吹き付ける風は予想よりも激しく中々点火しない。


『珍しい時間にかけてくるじゃねぇか』

「ん?んー、この時間なら銀ちゃん昼休みかなーと思ってー」


煙草を咥えながら喋ると、いつもより莫迦っぽさが増すと金時は自負した。
ただでさえ、兄の前ではいつも無防備で、全面的に頼ってしまっているというのに。


「それはそうと、結婚おめでと」

『そりゃどーも。結婚式にも来ない薄情な弟さん』

「ごめんね。行ったら嫌だ、結婚するなーって癇癪起こしちゃう気がしたからさ」


そう言うと銀八は笑ったが、あながち冗談ではなかった。
たった二人きりで、依存し合って生きてきた兄弟が法律上誰かのものになるのだと考えると、とんでもなく寂しくなった。
見たくなかったのだ、兄が誰かのものになって幸せになっていく姿なんて。
自分は未だにこんな薄暗い街に潜むように生きていくしかないというのに。


「今度、妙ちゃんに挨拶しに行くからね」

『来んのはいーけど、普通の格好で来いよ』


金時は未だに兄の妻に会ったことがなかった。
昔の教え子で、卒業後に再会したとか聞いた自分の義妹は少々性格に難はあっても美人で、気立ての良い女だと聞く。
いい奥さんになるんだろうな、と思うと更に心が沈んでいった。


「…あ、そだ。電話したのはもいっこ聞きたいことがあったんだよね」

『金ならねーぞ。引っ越したとこなんだから』

「俺は銀ちゃんより稼いでますぅー。もう副業ホストもしてないんでしょ」


金時は何気なく、まだ眠っているはずの付き人の寝室の方をちらりと見た。
昨夜は同伴はなかったが、朝方まで掃除をしていたらしい。その証拠に、風呂場が殺菌剤の匂いで充満していて酒の抜けない身体には酷だった。


「銀ちゃんの生徒に、桂小太郎、っていた?」


その名を出すことにほんの少し躊躇した。余計なことを知ってしまいそうな予感がしたのだ。
先生、と呟いた桂の声があまりにも悲哀に満ち満ちていたから、というそれだけの理由だが、金時には引っかかる部分が多少なりともあった。


『…あー。いたかもね』


予想に反して、兄の反応は至って普通だった。遠い過去にクラスの端っこに存在していた教え子を何とか思い出した、といった印象である。


「何か坂本のバカが連れてきたんだよね。俺の新しい付き人くん」

『へぇー。世間って狭いねぇ…確か妙の同級だったはずだけど、退学しちまったから、桂小太郎』

「だろーね。ま、よく働くしいい子だよ。銀ちゃんの教え子だし、たっぷり可愛がってあげよーっと」


銀八の態度は、金時の妙な引っかかりを見事に解消した。機会があれば会いに来てよ、とまで付け加えられるほどに。
暫く他愛もない話をして、電話を切る頃に、銀八の煙草の銘柄も自分と同じセブンスターだったことをふと思い出したが、
桂がもそもそと起きてきて「あれ」と素っ頓狂な声を出したものだから直ぐに忘却してしまった。

「いいっかげんにしてください!!」

天地がひっくり返った、と思ったがそれは単に布団ごとベッドから床に投げ捨てられたからだということに、金時はすぐに気付いた。


「いつまで寝てるつもりですか!!もうどう頑張ったって遅刻ですよ!!」


フローリングの床に強かに頭を打ち付け、くらくらしながら見上げた先には昨日家に連れ帰った客、ではなく仁王立ちして怒鳴る桂の姿があった。


「ってーな!!何も床に投げ落とすこたぁねーだろ!!金時さんの綺麗なお顔に傷が付いたらどうしてくれんだ!!」

「何度起こしてもあなたが起きないからでしょう!!お客様はとっくにお帰りになりましたよ!!」

「あのなぁ、俺は一応ナンバーワン張ってんだぞ!?少々の重役出勤ぐらい大目に見てくれるの!!堅気の仕事じゃねぇんだっつの!!」

「そういう気のたるみからナンバーワン転落に繋がるんじゃないですか!?生者必滅、盛者必衰!真面目な人間に群衆はついてくるものなんです!!
さあわかったら早く着替えて!!」


桂小太郎が付き人としてやって来てから半月ほどが経つが、こんな痴話喧嘩(というより親子喧嘩)は既にもう何十回と繰り返されていた。
何事にも糞がつくほど真面目な桂は、往々にして怠惰であるホストの生活に苛々させられっぱなしらしく、
本当にどこぞの五月蠅い母親のような態度で金時の生活習慣を少しでも向上させようと努めていた。
腹の立つことに、その容姿と若さで客の女どもにも気に入られ、
「小太郎くんに迷惑かけちゃだめよ」「金ちゃん、小太郎くんにちゃんとご飯食べさせてる!?細すぎるわよ!」
などと言われる回数が極端に増えた。
その実桂はよく働き、口うるさいくらいが欠点の申し分のない付き人だった。
桂は面倒くさがりで怠慢な金時とは正反対の性格だが、不思議と反りが合い、二人は不協和音を奏でながらもうまくやっていた。
桂に関して愚痴ひとつ零さない金時に、坂本は「なーんじゃ、おんしらうまくやっとるようじゃのぉ!」と満足そうに言って金時の肩を数回叩いた。
鬱陶しいけど、嫌いじゃないんだよな。何でかね、不思議なモンだよ。
それが桂に対する金時のざっとした感想だった。
桂も金時の世話を焼くことは、そんなに苦痛でないらしく、出来の悪い兄弟を躾けているといった印象を金時は受けた。
それもそれで嘆かわしいことなのだろうが。

金曜の夜は殊更に店が華やいだ空気になる。
翌日が休日のため、仕事帰りに立ち寄るOL客で店はどっと賑わうのだ。
ホストクラブに立ち寄るOLの姿が見られるのは、かぶき町の中でもまるで喫茶店のような値段設定と、「友営」精神を基本方針とする「JOY」ぐらいだ。
「友営」とは友達同士のように客とホストが接する形態で、肉体関係などを一切持たないスタンスのことである。
とは言え、別コースで「色恋」営業も勿論用意されている。
友営スタイルはあくまで安全さをアピールし客層を広げるための策略であり、客がホストにハマらなければそれまで、
けして無理に振り向かせようとはしないという意味だ。
ある程度ホストクラブに通うことに抵抗がなくなり、客が金を出す気にさえなれば、ホストとの疑似恋愛が体験できる「色恋」コースに移行することができる。
だが、「JOY」では客の金銭の管理もされており、一度にホストに使える制限額というものがある。
ホストに嵌りすぎて客が風俗に足を突っ込むような事態を避けるためだ。
営業中以外で贈り物をしたりするのは女性の勝手だが、目に余る貢ぎ方をされると坂本からそのホストに勧告が渡る。
ホストたちは基本坂本には頭が上がらないので、言われたことや店のルールは忠実に守るのだ。



「今晩は、日輪さん。今夜もご指名ありがとうございます」

「こんばんは、金さん」

まだ30代前半だというのに赤い着物をさらりと着こなす極上の美人が店に顔を出したことで、ホストたちはにわかにざわめき立つ。
金時のお得意様の一人である日輪は、吉原財閥のご令嬢で生粋の金持ちである。


「で、晴太の風邪は治ったの?」

「ああ、おかげさまでね。金さんがあの子の誕生日にくれたゲームで、嬉しそうにして遊んでるわ」


その昔、まだ金時が駆け出しだった頃、彼女と生き別れになっていた息子を再会させるのに一役買ったことから、日輪は金時の友営客となってくれたのだ。


「それで、金さん。今度はいつお休みなのかしら?」

「あれ、もしかしてデートのお誘い?来週の木曜は空いてるけど」


おどける金時に、日輪はそっと懐から二枚の遊園地の入場券を取り出し、ガラス製のテーブルの上に置いた。


「私じゃないのよ。今度の休みに、小太郎くんと行ってきてほしいの」

「…は?桂と?何で」

「あの子、あなたが休みの日でも働きづめなんじゃない?休暇を取らせてやってほしいのよ。この前晴太の面倒をよく見て貰ったから」


日輪に急な用が入り、金時の代わりに桂が彼女の息子を1日世話してからというもの、日輪は桂を目にかけるようになった。
若い女性客はともかく、妙齢の女性は桂に母性本能を擽られるのだろうか、皆客というより親戚のおばさんのように桂を矢鱈と可愛がった。
蕎麦が好きだと言うと、手打ちそばを作って持ってくる者までいた。細いんだからもっと食べなさい、という説教と共に。


「だからって何でヤローと二人で遊園地なんだよ」

「何となくよ。何となくいいと思ったの」


今日はドンペリ入れてあげるから、と日輪はにっこり笑った。
まったく俺も人が良すぎるな、と自虐気味に思いながらも金時は大人しく遊園地の入場券を2枚、上着のポケットに突っ込んだ。

「何ですか?これ」

チケットのことなどすっかり忘れて、シャワーも浴びずにどっかとソファに座り込んだ金時の脱ぎ散らかした上着を回収しながら桂が問うてきた。


「かぶきランド入場券…危ない、捨てるところでしたよ。お客様に頂いたものでしょう?こんなにぐしゃぐしゃにして」

「あーっもーるっせーな!それはちげーよ、別に客と行くわけじゃねーって」


放っておくとまたお母さんのような説教が始まるので、金時は手早く用件を告げた。
あとで誘うタイミングを図ったりだとか、妙に思われるんじゃないかといった危惧をするのも面倒だったので、丁度いいと言えば丁度よかった。


「日輪サンっているでしょ。あの人が次の休みにお前と二人で息抜きしてこいって」

「え…日輪さんが?」


桂は驚いているようだった。
それもそのはずだ、桂からすれば何だって休みの日に気に食わない上司と二人で遊園地なんぞに行かねばならんのだ、というのが率直な感想だろう。
しかし桂は少しだけ頬を赤らめ、見るからに行きたそうな顔でじっとチケットを凝視していた。
正確には、マスコットであるかぶきワンコの写真を穴が開くほど見つめていただけなのだが。


「…行きたい?」

「…で、でも金時さんはこんなとこ僕と行きたくないんじゃ」

「俺の意志なんて完全に無視だよ、上客のご命令だもん。お前が行きたいなら行こうぜ」


気怠げにそう言うと、桂は嬉しそうに、まるで無垢な子供のように瞳を輝かせて大きく頷いた。
それから年相応の屈託のない青い笑顔で、「ありがとうございます」と言った。
金時は初めて、彼がまだ20歳にも満たない若すぎる男なのだということを実感した。
不意に、どうして彼はこんなところで俺なんかの世話をするハメになったのだろう、と興味が少し沸いて出たが、
桂の機嫌を損ないたくはなかったのでごろりと横になった。
ベッドで寝ろとすぐに引き起こされたのは言うまでもない。


微妙に銀八妙でごめんなさい。仰るとおり、死ねばいいと思います
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