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次の貴重な休日を、金時は映画館で過ごした。 傍らにはキャラメル味のポップコーンと、事前準備のために買った映画のパンフレット、そして付き人兼居候の女のような長い髪の青年がいた。
2時間ほどの、今CMなどで話題のホラー映画がようやく後味の悪いラストを迎えた。長々とエンドロールが流れており、その間に観客たちはこぞって劇場を後にし始める。
金時は立ち上がることができなかった。映画の余韻に浸っているとか何とかいうわけでもなく、ただ単に腰が抜けていたのだ。
灯りが点いて気付いたことは、ポップコーンがほとんど手つかずのまま残っているということと、自分がまたも桂の腕を千切らんばかりに掴んでしまっていたということとの
二つだった。
「怖かったですね」
桂がどこか勝ち誇ったように笑ってそんなことを言った。
そう、怖かった。同意の言葉も喉に引っかかって出てこないほどに。金時は精一杯の力を振り絞って、青い顔に引き攣った笑みを浮かべた。

映画の後軽い食事をして、今回は車で帰路についた。
だが、金時は車で来たことを激しく後悔した。暗い道から何かが出てきそうで、全く運転に集中できなかった。
桂は映画については何も語らず、しかし金時の気を紛らそうとしているのか、よく喋った。それに対しても、金時は曖昧な返事しかできなかった。

「金時さん、すいませんでした。無理に付き合わせて」
桂は眠る前に少し申し訳なさそうに言った。あー、と間抜けな返事をして、金時はバラエティ番組にチャンネルを合わせた。
桂は少しその場に立ち止まっていたが、ぺたぺたと足音を立てて自室に戻った。

普段夜型の生活をしているので、目が冴えて眠れないというのもあるが、もっと別の理由で金時は眠る気が起きなかった。
テレビの質が時間と共にどんどんつまらなくなっていくのに、消す理由が見つからなかった。
このままベッドに入れば、恐らくあの恐怖映像が脳内を支配し、小さな物音に過敏に反応し、朝が来ることを切に希いながら羊を数える羽目になることは自明のことだった。
いい歳になってもまだ幼い頃と変わらない自分がバカに思えてきた。
『こういうときどうしてたっけ…あぁ、そうか銀ちゃんに添い寝してもらってたんだ…』
孤児院で肝試しか百物語か何かをした後、眠れなくて兄の布団に潜り込み、その身体にしがみついていた頃のことを思い出すと何だか切なくなった。
オールド・グッド・タイムってやつですか。俺も歳かなぁ、と金時は欠伸を一つした。

縋る相手がいないでもない。電話をすれば今からでも家に来てくれる女の子の番号は何件か知っている。
しかし、彼女たちが与えてくれるのは一時の肌の温もりだけで、寧ろ金時から甘い言葉なり優しい愛撫なりを搾取しようとするのが本当のところなのだ。
ホストとはそういう商品だ。自分を好きだと豪語する女は、金時の優しくない一面を見ても、それでも同じ気持ちでいられるのかどうか疑問である。
『…やべー、怖い通り越してネガティブ思考かよ』
時計を見ると明け方の4時だった。まだ外は暗い。意を決して眠ろうかと思っていた頃、桂が起きてきた。

「まだ起きてたんですか」
「ん、ま、まぁな」
今更言い訳を並べたところで、金時がぐずぐずと起きている理由など桂にはとっくにバレていることだろう。厄介な弱味を握られてしまった。
かけられるであろうからかいの言葉を待っていると、桂はもじもじと何かを言いかけてすぐに口を噤んだ。
「…?なに」
「あ、いや、あの…」
表情をよく窺うと、桂の整った顔立ちに困惑と恥ずかしさと戸惑いの色が滲み出ていることに金時は気がついた。
何か些細な秘密を告白するとき、人がきまって浮かべる表情だ。
些細な秘密とは、たとえば男だけどお菓子作りが趣味だとかそういった類のもの。
「…実は僕も眠ってないんです。あの…眠ろうとしたんですけど…」
「…まさかあの映画見て怖くてとか言わないよな」
「仰るとおりです」
金時が言い当てると、桂は何でわかったんだと言わんばかりの驚いた表情でそんな社会人みたいな切り返しをした。
「…それで?」
「……それで、お願いがあって」
桂は俯きがちに小さな声で言った。真っ直ぐな髪が今は寝癖で少し乱れている。
昔ながらのパジャマを着た生真面目で仕事人間な青年は、今はただの子供に見えた。それも5歳児ぐらいの。
金時が頷いて、桂の頼みを促した。聞いてやるという合図だ。
桂は少し逡巡したあと、これまた5歳児のようなお願いをした。
「一緒に寝てくれませんか」

桂のシーツにはまだ仄かな温かさが残っていて、それは何となく幼少期の幸福な瞬間を思わせた。
まだ何も変化せず、成長もしなくていい、世界は見えているだけの範囲でよかったあの頃。
桂は金時の胸に蹲る姿勢を取った。何だか恋人同士のような添い寝のポージングに、金時は少し戸惑った。
自分の位置からでは桂の長く艶やかな髪しか見えないせいだと金時は思った。
カチカチと例の趣味の悪い白ペンギン時計がやはり趣味の悪い無機質な針の音を刻む。
桂が微かに動くたびに衣擦れの音がする。お互いの凪いだ吐息と、膜のように覆い被さってくる安穏とした睡眠の予感。心地よかった。

何となく、金時は桂の髪を撫でてみたい衝動に駆られた。そう思うことは至極自然なことのように思えた。
だから実際にそうして、滑るような髪の感触を控えめに楽しんだ。
桂は一瞬ぴくっと肩を痙攣させたが、金時が何かするはずはないと信じ切っているようで、咎めるでもなく金時の為すがままにされていた。

「昔…怖い話聞いたあと、こーやってあやしてもらってた」
「お母さんに…ですか」
「いや、…どうだったかな」
母親の顔なんて知らない。だけど、ふと兄の話をするのはタブーのような気がした。
「孤児院の…先生だった…吉田、先生」
「初めて聞きました…」
「初めて話しました…」

睡魔が二人の頭上で茣蓙をかいている空間では、どちらも間延びした話し方になった。
いつも聞いている声なのに、今はどこか違う響きを有している。
自分も、相手も、知らない人のようだ。
だから孤児院なんて、坂本ぐらいにしか話していないようなことを話したのだろうか。自分じゃない、知らない誰かだから。

「生まれてすぐ親元を離れて…孤児院でのびのび育って…その頃から将来の夢は…かぶき町で一旗あげること」
そう言うと桂はふふ、と笑って、すみません、とすぐに付け足した。
金時は相変わらず桂の髪を撫でる一定のリズムに眠りを誘われ、瞼を閉じて有意識の断片にしがみついていた。しかし桂が付け加えた一言で、少し覚醒した。

「僕が風俗で天下獲って、男ながらにかぶき町の裏の王となったことは…知ってますよね」
茶化しながらも、桂が初めて自分のことを話した。金時はそれに驚いて眼を開けた。
「高校のときに…親父が事業で失敗して…自殺して…借金の肩代わりに風俗に入ったんですけど…僕が自ら志願したんですよ…よくある嫌々ながらって奴じゃなく…」
「マジか…それ、かっこいー。惚れそう」
桂はまた少し笑った。金時は声だけは同じトーンだったが、今や完全に眠気など吹き飛んでいた。
桂から初めて聞かされる、ここに至るまでの人生。鼓動が早まるのを感じた。人の秘密を知るときは、やっぱり緊張する。

「まだ残ってんの…親父の借金」
「借金は…坂本さんが残りを支払ってくれて…今はもう…坂本さんと金時さんのためだけに働いてます」
「じゃあ…俺と坂本のためだけなんだったら…あんな毎日頑張ることないじゃん…」
「…なにいってるんですか…もう…」

最後の声は殆ど消え入りそうな音だった。桂は緩やかに寝息を立てていた。
金時は今の桂の言葉を五臓六腑に染み渡らせた。いろいろ疑問だったことが解消されてすっきりしたはずなのに、どうしてだか心に靄がかかっていた。

ほんの高校生だった当時の桂のことを想えば想うほど、泣きたいほど切なくなった。折れそうな身体にどれほどの痛苦を抱え込んできたのだろう。
俺も大概しんどい人生だけど、こいつの方が何枚か上手だったんだ。
ふと桂の顔を覗き込むと、涙の筋がこめかみを通っていた。
それを見て、金時も年甲斐もなくもらい泣きしそうになったが、その代わりに桂を抱き締めて眠ることにした。
自分の拙い体温で、誰かを朝まで安心して眠らせたいと願ったのはこれが初めてだった。


金時が優しすぎて自分でもびっくりしている
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