「最近、何だか機嫌いいですね金さん」
元付き人で現経営者の志村は、にらめっこを続けていた店の帳簿から目を離すなりそんなことを言った。
言われた当人である金時に自覚はなかったが、唯一金時の付き人という任を全うした彼の言うことである、きっと自分は機嫌がいいのだろうと思った。
「そうかぁ?」
「ええ、指名率もぐっと伸びてますし。何かいいことあったんですか?」
金時の酔いが回った頭にふと浮かんだのは、何故か桂の顔だった。それも遊園地に行ったときの、とびきり純真な其れが。
「…え、いやこれはないない」
「ちょっとよく意味がわかりません」
志村もさして興味はないのか、再び帳簿に視線を落とした。
以前より上等な眼鏡に変わっていることをからかってやろうかと思ったが、今の自分の無意識が起こした悪戯でどっと疲れがやってきたので早々に事務所を出ることにした。
「…いいことねぇ…」
眠りに就く寸前のかぶき町を見ながら、金時は煙草に火を点けて独りごちた。
電話をかければ桂が取り立ての免許を携えて車で迎えに来て、酔い覚ましのコーヒーを淹れてくれて、熱い風呂を沸かしてくれて、
太陽の匂いを存分に吸い取った布団に自分を投げ込んでくれることは、いいこと、なんだろうか。
確かに桂が来てから自分の生活は楽になった。
生活だけでなく、何だか精神的にもゆとりが生まれた。それはきっと昼夜は逆転していても、以前に比べれば規則的な生活を送っているからだろう。
よく考えなくても、現在の生活は今までの其れとは格段に良質なものだった。
(そうすっと、いいこと、なのかもな)
これまでの人生で一番充足していた時はいつかと聞かれれば、それは兄と過ごした日々だった。
血の繋がりがあるというだけで無条件に自分の傍らにいてくれて、あらゆる有害なものから自分を護ってくれた。
兄なしで生きていく日が来るなんて考えもつかず、もしそうなれば自分は死を余儀なくされるだろうと金時は本気で思っていた。
大切な思春期を、金時は兄に捨てられないようにするためだけに生きた。
だからこそ、世間一般からすれば目を背けたくなるような不道徳な遊びにだって興じたのだ。
兄に身体を開くという不義は、金時にとって得難い僥倖だった。
兄はこの世で自分だけを愛していると錯覚することができた。
たとえ兄がどんな女に手を出そうと、帰着するのはうりふたつの弟である自分だと信じていた。
だけど、兄が教師になると言い、これからは別々に暮らそうと切り出したときに、その信仰は打ち砕かれたのだった。
本当は、紛いなりにも成長を重ねると共にわかっていた。兄は自分を愛してなどいない。
ただ一番近くに生まれ落ちたから、共に生きてきただけだという話。
それを確信する理由は些末で、しかし幾千もあって、確実に雪のように金時の魂にゆっくりと積もっていった。
兄に見捨てられたら死ぬしかない、という信念にも似た思いは果たして金時を裏切ることとなった。存外生活できてしまう。
ホストという生業は、金に困らず、つまるところ生活にも困窮しない。虚像であっても誰かの温もりが容易く手に入る。
自分の身体から影がすっぽり抜け落ちたような虚無感を引き摺りながら、それでも金時はそれなりに自立して生きてきた。
最早死の魔物は、彼の生活の枠の外に放り出されてしまっていた。
ともあれ、自分が経験した最上の日常と比較すると少し劣るが、今の桂との生活は充分に満足のいくものだった。
桂は兄と同じようなことをしてくれているわけではないが、何となく安堵感と呼ぶべきものが日々を膜状に包み込んでいた。
「金時さん?」
不意に聞き馴染んだ声が聞こえ、金時は気怠げに声のする方へ首を傾けた。
予想通り、桂がちょっとくたびれ気味な立ち姿で訝しげに金時を見ていた。
荷物は持っておらず、車のキーだけが彼の細い指に巻き付いて指輪のようにきらりと光っていた。
店が終わる頃合いを見て迎えに来てくれていたのだろう。だのに金時から電話の一本もないから、わざわざ店先まで足を運んだのだ。
「柄にもなく考え事ですか」
そんな憎まれ口を叩きながら、桂は金時に歩み寄り、細身のチノパンのポケットから携帯灰皿を取り出した。
金時はその銀色の灰皿に、殆ど吸わなかった煙草を押し込み、妙なことを言った。
「お前のこと考えてた」
どういう反応をするか見たいという好奇心からか、未だ酔いが回っているのか、金時はまるで女を口説くときみたいな台詞を投げた。
たぶん、何言ってんですかと一蹴されるだろうと踏んでいたが、桂は意外にも面食らったようだった。
大きくて澄んだ瞳が所在なげに動く。生娘のような彼の表情に、金時はぐらりと臓腑が焦げ付くのを認めた。
何その顔。
身体の芯を一直線に電流が走り、血が猛る。酒のせいだけではない。
もしもあと一杯多く酒を呷っていたら、金時は原始的な衝動のままに桂の華奢な肩を壁に押しつけて、貪るように口づけていただろう。
だが辛うじて理性はまだ生きていたし、これもまた好奇心の為す技なのだが、今感じた気持ちの正体を突き詰めてみたいとも思ったので、
金時はへらりと笑うだけに留めた。その顔を見て桂は莫迦にされたと感じたのか、不機嫌に眉を顰めて「帰りますよ」と金時に背を向けた。
帰りの車に揺られている内、酒は驚くほどすぅと抜けていった。
体内にしこたま溜め込んだはずのアルコールが音もなくゆっくりと蒸発して、金時は少し拍子抜けしたぐらいだ。
まだ辿々しいが、桂の運転には持ち前の生真面目さが存分に出ていた。スピード制限はきっちり守り、通行人が一人もいなくても信号は厳守する。
新しい筈の車は既に桂という主に馴染み始めていて、規則正しく心地よいリズムを刻んでいる。
何を言うでもなく、金時は薄暗い車内にぼんやりと浮かぶ桂の横顔を見た。
わかっていたことだが、見れば見るほどに何と整った美しい顔だろう。
男の容姿に見とれることなど、同業者に対しても有り得ないのに。酒が入っていたとはいえ、一度妙な意識が芽生えた所為だろうか。そうであることを祈るしかない。
別に桂を性的対象として見ることには抵抗などない。同性とは言え同居しているわけで、加えてこれほどの容姿だ。
仮に自分に一度も男性との経験がなくとも、ちょっとした間違いを犯すことは往々にしてあるだろう。
金時が一番恐れているのは、桂に兄を重ねることだった。
折角ここ数年で何とか自分の気持ちに踏ん切りがついたというのに、また同じ過ちを繰り返せば、今度こそ自分は死ぬしかないだろう、と思った。
しかしふと思い出すのは、初めて桂が自分のことを語った夜のこと。
桂が覗かせたどんよりとした影と、あと少しの加重で折れて仕舞いそうな心魂。
護ってやりたい、安心してほしいと、あの時確かにそう思った。
兄をというよりは、桂にかつて庇護される対象だった自分を重ねているのかもしれない。だとすれば自分は思っていた以上にナルシストだ。
桂を護りたいと思うのは、兄が自分に出来なかったことを代わりに成し遂げようとしているからか。
救いようのないブラコンだな、と金時は自嘲した。
「…もしかしてだいぶお疲れですか?随分静かですけど」
常ならば悪酔いしてくだを巻く金時を気にかけ、桂はちらと此方に視線を寄越した。
いつもと飲んだ量は変わらないのに、不思議なものだ。桂に対する意識が少し変わったぐらいで、こうも素直に身体が変化するものかと金時は驚いた。
「ん…いや、眠いだけ」
今の返答は果たして通常通りだっただろうか、と心配して金時ははたと気付いた。
ちょっと待て、それって何か、初恋みたいじゃね?
愕然とした。嗚呼どうしよう、もし今の己の感情がそれに限りなく近いのなら一度意識してしまえばお終いじゃないか。
このままずるずると、惹き込まれてしまう。足掻き藻掻いても解放されることのない愚かな、澄んだ感情の渦が、眼前に広がっている。
そしてそいつがとんでもなく厄介だということも知っている。
(…あぁ〜…もう、やめろよマジでそういうの)
眠いと言った手前、金時はウインドウにこつんとこめかみを預けて狸寝入りを始めた。
茫々とした表情で、朝日が汚いビルの隙間から顔を出すのが見えた。