7

恋、という至って陳腐な現象は思い込みから構成されている。
好きだと思えば思うほどに、恋は現象から感情へと姿を変えて脳に茣蓙を掻き始めるのだ。
だから其れを粉砕するためには、好きだと思わなければいい。ただそれだけの単純な話だ。
金時はそんな持論を無理繰り振りかざし、それをひとつの結論に据え置き、悶々として結局一睡もできなかった身体をベッドから起こした。
時計を見ると、出勤時間まであと3時間近くある。部屋の外からぼんやりと聞こえてくる掃除機の音に、意中の相手の存在を確認し、金時は溜息を吐いた。
明朝の妙な想いが、金時の健全なる血流を邪魔していた。
一時の気の迷い、と片付けてしまえなかった、桂への感情が未だ金時の中に燻っていて、何となくすぐに部屋を出る気になれなかった。
顔を合わせたいような、合わせたくないような。
網膜にはインプットされたように、桂が起きてきた自分に気付いて此方を振り向き、淡泊な挨拶をする映像が綺麗に流れてくる。
中性的で、寄る辺ないような、しかし折れぬ芯を持った不思議な雰囲気を醸し出す、綺麗な男。
自分より十以上も年下の、痛ましい過去を背負った、ひとつ屋根の下の男。

「って何思い出してんの俺気持ちワル…」

恋情というものが厄介なのは、払っても払っても結局のところ元あった位置にすんなりと収まってしまう点にある。
幾ら勘違いだ思い込みだと言い聞かせても、それらが詭弁であることは自分の心とやらが一番よく知っている。
辟易している内に、掃除機の音が止んだ。
そろそろ起こしに来るかと思い、金時は今の今まで眠っていたという体を装うべく乱れたシーツに再びその身体を滑り込ませた。
案の定、足音が此方に向かい、ドアが規則正しくノックされ、「金時さん、お早うございます」と凛とした声が金時の耳を打った。
一晩中脳内にいた存在が、実像を伴ってすぐ傍にあるのだという当たり前のことが、何故か奇跡のように思えたが、そんな浪漫的なことはおくびにも出さずに
金時は寝起き特有のうすら馬鹿げた呻き声を返答の代わりにした。

「金時、おんし大丈夫かぇ」
失敗した。今日はもうやけっぱちだと、金時は浴びるように酒を飲み、接客もままならぬほどに泥酔してしまった。
ホスト失格だと思いつつも、感情の澱を吐き出す手段として酒は有効だったのだ。
現に、きつい酒を掻っ込んでいる間だけは、色々面倒なことも忘れられていた。

「ちっくと気張りすぎたかの。儂が来るからっていいとこ見せようとせんでもええき」

坂本は冗談めかしてそんなことを言い、三下に持ってこさせた水を無理矢理金時に飲ませた。
殆ど意識もない金時は、ミネラルウォーターさえも酒だと錯覚して勢いよく飲み干した。
今の彼は、人間として機能すらできない、アルコールと油分の固まりでしかない。

「こりゃもう今日は家に帰すかのぉ。全く、仕様のない奴じゃ…」

坂本は携帯を取り出し、金時の世話係を呼び出した。
その男こそが、金時の深酒の原因だとも知らず。そして元凶が来ることを、金時本人も知らない。
暫くすると桂が常より何時間も早く金時を迎えにやって来た。
酔い潰れた金時の姿を認めるなり綺麗に顔を顰め、坂本に丁重な詫びをしてから、細い身体の何処に眠っているのかわからない剛力で金時の肩を担ぎ上げた。
ずるずる音を立てて引き摺られていくナンバーワン・ホストは、混迷を極める思考と感覚器官の隙間から想い人の匂いを感じて安堵していた。

マンションに着くなり、桂は金時を玄関先の板張りに投げ捨てた。

「職業意識ってものがないんですかアンタは」

その声は彎曲して金時の耳に響いたのだが、眠りの海に身体を半分沈めている状態ではぐうの音も出なかった。
その次に覚えているのがふかふかのベッドに投げ捨てられた感覚で、その次は割れんばかりの頭痛だった。
それが今現在、時刻は丑三つ時。秒針さえも頭を殴りつけてくると錯覚するほどにがんがんと痛い。
とりあえず水分を摂ろうと台所へ蹌踉めきつつも向かい、一気にペットボトル半分を飲み干した。
部屋は灯りが点いていて、それが目に焼きつくようで酷だったので、電気を消してやった。
ソファの上で誰かが動く気配がした。誰かというか桂しかいない。どうやら本格的なうたた寝してしまっているようで、規則正しい寝息がしじまに響く。
桂の寝姿を見たことがなかった事実に気付くやいなや、まだ酒臭い金時はそっと忍び足で眠る桂に近付いた。
桂は胎児のような姿勢で狭いソファに蹲って、幸せそうに安眠していた。測ったように正確に呼吸を繰り返す、模範的な寝姿だ。
長すぎる睫毛が扇のように広がっている。金時は、純粋に触れてみたいと想った。
嘆かわしいことに酒の力は強大で、自制という二文字を金時から隠してしまっていたので、とどのつまり、桂の頬に触れ、睫毛をなぞった。
上質の絹のように柔らかな皮膚が、金時の熱を上げた。迫り上がってくる其れは情動と呼ぶべきものであろう。もっと触れたい、と思った。
だからその通りに、輪郭を指で幾分不躾になぞり、次に形の良い唇に触れた。ぴくりと微動する唇から熱い吐息が漏れ出す。
それだけで、理性を欠いた金時を次の行動に移すには充分だった。
金時は眠る桂に口づけた。触れているのかどうかすらよくわからなかったので、ぐっと押しつけた。
当然のように深くなっていく。舌を差し入れる頃になってやっと、桂が覚醒を始めていることに気が付いた。
しかし予想に反し、桂は舌を、ついには金時の首に腕を絡めてくる。
ぞくりと寒気に似た震えが背を走り、ソファに押しつけるようにして金時は桂を貪った。
悩ましい吐息が洩れ合い、昇まる。酸素が足りなくなるまで舌を絡め合って、金時は夢うつつで舌を一瞬離した。
その、離した隙に、桂が呟いた。

「…先生…」

その呼び名が喚起する意味を金時が悟るのに、少しも時間はかからなかった。


どっちもやらかしたで!
8