桂が放った先生、という言葉は、何の変哲もないものなのに、金時にとってはこの世の中で最も忌むべき穢らわしい言葉だった。
金時は反射的に桂から身を離し、数歩後ずさった。まるで桂が恐ろしい化け物に変貌したかのような、絶望的な気分であった。 桂も桂で、今自分はとんでもないことを言い放ったのだという事実に、金時と同じくらい驚き、絶望していた。薄暗がりの中からでも、金時にはよくわかった。
先生。
たった一言だけ、しかし、その一言で充分だった。
桂は、兄と寝ていた。
「きんっ…金時さんっ!」
金時は逃げ出すように踵を返し、宛てもないのに自宅から飛びだそうと玄関へ向かった。 桂は意外にも、そんな彼を追った。出て行こうとする家主の腕を、背を掴んで名前を呼んだ。
「金時さん、待って…待ってください!」
捨てないでと懇願する子どものような態度で追い縋る桂を、部屋が暗くて顔がよく見えないのをいいことに金時は思い切り振り払った。尋常でなく細い桂はいとも簡単に重心を失い、床に尻餅を付いた。それでも彼は勇ましく起き上がり、金時を中々の剛力で引き留めようとする。
「待って、ちょっと待ってください、俺の話を___」
「離せよ、きしょくわりぃっ」
桂はびくっと肩を反らし、腕を持つ力を緩めた。傷付いたのだろうと思えども、今の金時には裏切られたような被害者気分と、憤怒しかなかった。
「…何だよ、何でもなかったようなふりしやがって…」
以前電話で話した兄の、桂とは何事もなかったような態度を思い出す。兄に嘘を吐かれたという事実の露呈は、さらに金時を惨めにさせた。それと同時に、よくもまあ昔関係を持っていた男とうりふたつの顔の自分と、ぬけぬけと同居なぞできたものだという桂への侮蔑の念が湧き起こってくる。兄と桂両方に、手酷い裏切りを受けたと金時は感じた。金時は、傷付いていた。
「よく俺の世話役なんかできたよな、お前」
滑稽なほどに、金時の声は震えていた。怒りに震えているのか、悲しくて涙声になっているのか、彼自身分からなかった。 桂は何も言わなかった。顔はよく見えないが、きっと酷い表情をしているのだろう。仮にも好きになった相手にさせるべきでない類の表情であることは分かっていた。
「知ってたんだろ、俺があいつの弟だってこと。涼しい顔して、何?俺を利用して昔のイイ思い出にでも浸ってたわけ?」
「ち、が」
こんなことを言うべきではない、もっと冷静に話し合うべきだ、金時の良心の残滓が彼に語りかけてくるが、とても沸騰した感情に蓋はできなかった。 自分が激昂し、被害者ぶるのはお門違いだと思えども、久々に抱いた純粋な想いを踏みにじられたようで、自分のような男は結局真っ当に生きることは不可能なのだという答えを叩きつけられたようで、金時は桂に、言葉の牙を振るった。
「馬鹿だと思ってんだろ、俺がお前に変な感情持っちまって。お前こうなること最初から望んでたんじゃねえ?俺の顔使ってもっかいセンセイと疑似恋愛したかったんだろ?」
その言葉に、桂はきっぱりと言った。
「俺はあなたを、あの人と同じだなんて思ってない。金時さんは、先生とは全然似ていない」
意志のこもった凛とした声音に、金時は少し怯み、冷静さを少しばかり取り戻した。
「黙っていたのは、言うべきじゃないと思ったからです。…こんな形で知らせることになって、本当にすいません」
今度は金時が口を噤む番だった。
「俺は、…俺は、あなたを尊敬しているし、一人の人間として好きです。金時さんが俺を好きになってくれて本当に嬉しい。俺もそれに応えたい。だけど、俺はもう誰とも深く関わることはできないんです」
関わることはできない、と言う桂の言葉は、関わりたくない、という意志と反している、と金時は察知した。本当に何らかの理由で関わることができないのだ、という微妙な言葉のニュアンスがそこにはあった。金時は深くため息を吐いた。今まで築いた桂との関係が、ものの見事に、最悪の形で崩れ去ったことが分かった。
「金時さんが不快に思うのは当然です。もう顔も見たくないと思います。俺はあなたの気持ちにちゃんと応えることもできない。明日にはここを出ます」
「出る、って…どうする気だよ」
突然すぎる桂の申し出に、金時は思わず狼狽した。
「さあ、わかりません。…金時さん、まだ俺のこと心配してくれるんですね。あなたみたいに優しい人が、この街でうまく生きていけるのが少し不思議です」
先ほどの怒りから一転して金時は、桂を引き留めたい気持ちでいっぱいになった。ここでこいつをゴミ溜めみたいな街に捨てて、本当にそれで後悔しないだろうか? だが、これ以上一緒にいても、意味がないということも分かっていた。恐らく、明日で縁を切って、綺麗さっぱり忘れてしまうことが、この街で地べたを這うようにして生きている自分には最上の選択なのだろう。今までの世話役を切ってきたように、桂もそれらの一部にしてしまうのだ。きっと桂はすぐに、数えきれないほどある過去の苦い思い出のひとつと化す。 金時は、何も言わなかった。黙って、桂と別れることに決めた。
「…でも、明日一日だけ、金時さんの世話役でいさせてもらえませんか」
桂の最後の我儘を、金時は聞いてやることにした。少し微笑んで頷くと、桂も悲しそうな笑顔を見せた。どうして微笑むことができるのか、理解に苦しむほどに、桂の瞳は悲哀に満ち満ちていた。そんな顔をさせたかったわけじゃあなかったのに、と金時は思い、己の幼さと浅はかさを憎んだ。
翌日、桂は驚くほどにいつも通りだった。いつものように桂は金時を起こし、食事を作り、風呂を入れて着替えを用意した。今日で最後だなどと、俄かには信じられないほど穏やかな昼だった。少しだけ、桂の動きが鈍いように見えたが、寧ろそれが自然だろうと金時は思った。
無意識に顔を見ないようにしていたせいで、金時は出勤しようと部屋を出るときまで、桂の顔色にまるで気付かなかった。昨日のことが原因だという理由では片付けられないほど、桂の顔は血の気がなく、蒼白だった。よく見れば冷や汗まで掻いている。
「どうしたんだよその顔。熱でもあんのか」
「…え?…悪いですか、顔色」
「悪いなんてもんじゃねえよ、死人みてぇだぜ、…いいから寝てろよ、勝手に仕事行くからさ」
「…何言ってるんですか。ダメですよ」
桂は今にも消え入りそうに、弱々しく笑った。じゃあ俺が運転すっから、と金時は妥協して桂から車のキーを奪い取った。その時触れた手は、ぞっとするほどに冷たかった。本当にマズいんじゃないか、病院に連れて行った方が、と金時は思ったが、今日出ていくという、忘れ去るべき相手にそこまでするほどお人好しでもなかった。
ところが助手席に座る桂の状態は、どんどん悪化していく。呼吸が浅く不規則になり、服に汗の染みが滲み始めていた。にも関わらず、寒いようで身体が小刻みに震えている。見かねて時折声を掛けたが、初めは応答していたのが、店の近くまで来ると返事もできなくなっていた。
「おい、桂、このまま病院…」
しかし、病院、という単語に、桂は首を振った。
病院を嫌がることから、俺に隠れて何かヤバいモノでもやったのだろうか、と金時は疑った。 それでも、このまま店に連れていくわけにはいかない。ヤブ医者でもいいから、とにかく何とか落ち着かせないと。このままでは、桂が死んでしまう。
死ぬ。桂が?
桂が死ぬ、と考えた途端に、金時はどん底に叩き落されたような気分になった。 これまでに何人か知人を亡くしたことはある。しかしその時察知し、感じた「死」と今のそれとはまるで違っていた。どこまでも恐ろしく、底なしに絶望的で、残される自分さえその闇に囚われて動けなくなるような、そんな予感がした。
「桂、しっかりしろ、おい、桂!」
金時はどうしようもなく怖くなって、桂の名を何度も呼んだ。
その時、携帯がうるさく鳴り響いた。苛立ち、無視をしようと思ったが、その着信音が坂本からのものであると気付くと、藁にも縋る思いで電話を取った。
『おお、銀時?おんし今どこに_____』
「坂本!!医者呼んでくれ!!」
『医者?おんし何かに巻きこまれゆうがか』
「ちげぇ、俺じゃねえ!とにかく店にいんなら医者呼んでくれ!桂がヘンなんだよっ」
桂の名を出すと、坂本は一瞬押し黙ってから、低い声で了承した。
こいつ、何か知ってる。
金時は電話を切りながら直感的にそう思ったが、それについては吟味せずに、警察官がいればすぐに取り締まられるであろう速度で店へと車を飛ばした。
桂を担いで急いで店に入ると、事情を知っている様子のホストたちが金時を事務所の奥へと誘導した。店の近くに投げ捨てるようにして停めた車のことも忘れるほど、金時は動揺し、急いていた。
「金時」
部屋には坂本と、見慣れぬガタイのいい中年ぐらいの男がいた。その男が医者だとは金時には思いもよらなかったが、彼は慣れた手つきで、ぐったりとしている桂を仮眠用のベッドに寝かせ、衣服を剥いで呼吸をしやすい体勢にさせた。医者は持参したらしい簡易な医療用具で金時にはわからない処置をした後、桂に水と薬を飲ませた。どうやら桂は落ち着いたらしい。
強面のその医者は、顔とまったく合っていないオネエ言葉で話し始めた。
「熱があって、一時的な呼吸困難。空咳が続いていたなら、恐らく肺炎ね」
「肺炎?」
その言葉に金時は拍子抜けした。それならすぐに治るではないか、何が死ぬだ、と思ったのだ。 このぐらいで大袈裟に騒ぐだなんて、やはり自分は桂への想いを捨て切れていないのだ、とも。
「安心するんじゃないわよ、あんたたち。それは今の症状ってだけ」
「西郷殿、…それは、どういうことかの」
西郷、という名前ではたと気付いた。女装をしていないのでわからなかったが、今医者を気取っているのは、同じかぶき町でオカマバーを経営する、マドマーゼル西郷だ。
「西郷って…あんた、医者だったわけ」
「そうよん。ま、医師免許はこの街でしか有効じゃないけどね…それにしても久しぶりね、パー子」
西郷は、かつて彼の店で強制バイトをさせられた時の忌まわしい名で金時を呼び、ウインクして見せた。常ならば喧嘩を吹っ掛けるところだが、今はそんな余裕はない。
「どういうことだよ、肺炎なら薬飲めば治るんじゃねーのかよ」
「…あんたを責めるわけじゃないけど、この子の症状にもっと早く気付くべきだったわね」
西郷は沈痛な面持ちで続けた。坂本の顔を見ると、何かを悟ったような表情をしていた。来る時が来た、とでもいうような。
「手指にヘルペスができてるわ。ヘルペスひょうそうって言うんだけどね…ま、検査をしっかりしてみないとまだ何とも言えないけど、アタシもこの街でヤブやって長いのよ。同じような症状の奴らを何度も見てきたわ」
嫌な予感がした。それは、予感と呼ぶにはあまりに確信に近い。先ほどまでの安堵は引き波のように去って行った。
「エイズね、たぶん」
金時の喉は張り付き、何も言えなかった。坂本は項垂れ、「そうか」とだけ呟いた。
「前の商売ができんと言っていた時点で、もしかしたらと少し思っとった。じゃが、聞けんかった。恐らく、聞いたらこのまま姿をくらますじゃろうと思うて。死ぬ前の猫みたいにの」
坂本は気付いていた。しかし、金時はその予兆さえ感じることができなかった。普段の桂は至って平常で、小食なこと以外は何の問題もないとさえ思っていた。きっと、気を付けていればそのサインを見つけることができただろう。
「すまんかった、金時」
どうして俺に謝るのだろう。その可能性を話しておくべきだったという後悔だろうか。 坂本は、金時は女にしか手を出さないと思っている。伝染する可能性はほとんどないと思い、また話すことで金時が引き取ることに尻込みすると思って、話さなかったのだろう。
坂本が謝れば、桂が助かるというのなら、何度でも謝ってほしい。だが、現実は違う。
誰が何をしようとも、もう桂の病気は治らない。病院を嫌がったぐらいなんだから、薬なんか貰ってもいないだろう。きっと、ここまで来たということは、手遅れということなのだ。 そんなこととは思わずに、自分は桂に何をしてきたのだろう。一日中働かせただけでなく、手前勝手な想いを彼に押し付けて、傷つけた。一体何をしていたのだろう。彼の人生を取り返しのつかないところにまで追い込んでしまった。俺は、一体、何を。
「……桂」
金時は桂の名を口にした。西郷も坂本も、通夜に来たような顔をしている。 桂は眠っているようだった。金時はゆっくりと桂に近づき、その寝顔を目に焼き付けた。
後悔と自己嫌悪と、自責の念が押し寄せる。眠る桂の顔はとても美しい。
俺には、何もしてやれない。
金時は、薄いシーツを指が折れるほどに握りしめ、あふれ出てきそうな涙を押し込めた。 泣く代わりに、もう一度、桂の名を呼んだ。