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桂が倒れてから、1週間が経った。

1週間という期間は往々にして短いものであるはずなのだが、金時にとっては途方もなく長い期間だった。 しかし、刻一刻と消費されていく桂の命のことを思えば、あまりに短すぎた。

あの後、金時は長期の休暇をもらうことになった。ダメだと言われても、クビを切られるのも辞さない覚悟で休むつもりではあった。もっとも1週間経った段階で、金時は自分が復職するというイメージを持てずにいるのだが。

そして、あの日永遠に別れるはずだった金時と桂は、また同じ部屋で暮らしていた。

以前と異なるのは、仕事に行かなくていい分ほぼ一日中一緒にいるという点と、世話を焼く役割が金時に変わったという点だった。炊事や洗濯といった家事全般はもちろん、風呂や食事の補助なども全て金時が請け負った。1日に1回は西郷が訪れて様子を見に来て、坂本や店の若い者も見舞いついでに諸々の雑務を手伝ってくれたりした。 桂は、起きている時は以前と何ら変わらない様子で、金時の手伝いをしようとさえしてくるほどだが、日を追うごとに眠っている時間が多くなった。 それを見る度、金時はこのまま起きないんじゃないかという不安から桂の傍を離れられなくなり、深く寝入る桂をじっと見つめながら色々なことに思案を巡らせていた。

今もまた、金時は眠る桂の傍で、椅子に腰かけて、桂の規則的な呼吸を見守っていた。

この姿を眺めていられるのも、あとどのぐらいなのだろう。そんなことを考えても詮無きことだとは思えども、この一週間幾度も幾度も、どうしても命の期限が頭に上る。 そして決まって、自分を責めてしまう。同居していた自分がもっと早く異常に気付けていれば、見過ごしていなければ。 もしも自分が堅気の商売をしていたなら、もっと頭が回る人間ならば。知識と時間さえあれば何とかできたのかもしれない。それは違うとわかっていても、答えなどないことを知っていても、飽きもせず堂々巡りを繰り返してしまっていた。きっとこれは看護者の常なのだろう。

桂が病院を嫌がったのは、彼が保険証を持っていなかったからだった。よくよく考えれば年端も行かぬ身寄りのない裏社会の住人なのだから、当然だった。医療費がとんでもなく高くつくので、それを払ってくれと坂本や金時に頼むのは嫌だったと桂は零した。

今となっては、いくら高くても払ってやると金時は思える。しかし、それは桂を好きになった今だからだ、というのも事実だった。坂本に自分を責める気持ちを吐露した時、そう諭された。

 そもそも、桂は端から病気を治す気がなかった。病気のせいで借金を返す術を失ってしまったことが彼にとっての最大の問題で、自分の生死に関しては何の執着もなかった。だから、幸運にも坂本に拾ってもらえ、借金まで肩代わりしてもらえた時点で、残り少ない命を恩返しに使おうと決めたというのだ。そのことは、倒れた後目を覚ました桂本人から聞いた。

「いつ死んでも構わないって、思っていました。だから病気のことは極力バレないようにしていましたし、…いよいよ駄目だと思ったら、姿を晦ましてどこかで野たれ死ねばいい、と」

こんな風に金時の前で倒れるつもりはなかった、と桂は細い声で言った。

「ごめんなさい、金時さん、…昨日のことも、姿を消すいい機会だと思った部分も少なからずあって、世話になったのに、傷つけたのに…俺、本当に勝手な人間で」

桂は、その時初めて泣いた。抑えきれなかった莫大な感情の澱が、ひとかけらだけ涙として落ちてしまった、という泣き方だった。金時にとって、桂が詫びた内容はもうどうだってよいことだった。兎に角もう一度、桂の声が聞けただけでも嬉しかった。不覚にも涙しそうになるのを抑え、金時は桂の頭を震える手で撫でた。その感触が、例の堂々巡りの思考と同じぐらいの頻度で、何度も掌に蘇った。

「…ん…」
「お。起きたか、飯食うか?」
「おはようございます…今何時ですか」
「サザエさんが終わったぐらい」
「あ、宇宙怪獣ステファン」
「…毎週録画してあんだろ」
「そうですけど、せっかく家にいるんでリアルタイムで見たかったです」

しまった、という顔をしつつのそりとベッドから身を起こす桂を、金時は呆れ顔で笑った。

彼の数少ない好きなもの。ゆっくりと、確実に弱って行く彼に、少しでも多くそれらを与えたいと、看護する身らしく思うのだが、ステファンは別に後でゆっくり見ればいいんじゃなかろうかと思うのも正直なところだ。

「次から起こすわ」
「…ありがとうございます。本当に」

桂はしおらしく感謝した。自分の思い描いていた末期とあまりに違いすぎる現実を、一週間経っても尚受け入れきれていないようで、些細な金時の親切にも桂はありったけの感謝を込める。

「…いーって。好きでやってんだから」

こんな形でなければ、桂とこういう風には過ごせなかったかもしれない、とも金時は思っていた。もしもあの時桂が倒れなければ、今頃本当に彼は一人で、野垂れ死んでいたかもしれない。せめて、温かい家で、精一杯の愛情を注いでやれることは、救いだった。

本音を言えば、いくら手遅れであるとわかっていても、悪あがきで病院に連れていって最善の治療を受けさせたかった。だが、それが金時のエゴだということも、重々わかっていた。桂の命は自分のものではない。彼が望まないのなら、自分にはどうすることもできない。歯がゆくてたまらないが、桂は幸せそうな笑顔を向けてくれる。本当の兄か何かに向けるような、無警戒で素朴な笑顔だ。桂の中で、金時という存在が救いになっていることの証だった。そしてそれは、同時に金時の救いでもあった。

「…金時さん。俺、自分が死ぬっていうことに対して、寧ろラッキーだと思ってたんです。どんな汚い生き方をしても、何かと言い訳にもなるし、責任だって全部投げ捨てられる。そもそもこっちの世界に来た時は、ここから体よく脱け出せる最高のきっかけだとも思ってました」

桂はおもむろにそんなことを告白し始めた。

「…でも、金時さんと一緒に暮らすようになってから、ちょっとずつ死ぬのが嫌になってきて、金時さんとこのままずっと暮らせたらいいな、なんて思ったりもして、そしたら、今すごく死ぬの怖いし、さびしいんですよね」

桂は、言葉にそぐわないほどの明るい笑顔を金時に向けた。喉元までせり上がる、えもいわれぬ切なさに、金時は一瞬表情を強張らせた。どうして、もう何もかも手遅れなんだろう。一体誰が、何が悪かったのか、どこをどう間違えてしまったのか。全て己の過ちの所為だと言われた方が、どれだけ楽か知れない。

「…だから、あんまり優しくしないでくださいね」

そんなこと、言うなよ。俺にできることは、人が変わったぐらい優しく、慈しむことぐらいしかないのに。金時はそう言いたかったが、言葉をぐっと呑み込んで、代わりにくだらない返事をした。

「わかった、じゃあHDD容量を食いつぶすステファンは消しとくわ」
「それとこれとは別です、絶対駄目ですよ」

今の二人にとってはこんな軽口の叩きあいさえ、特別な時間だった。きっと、今が一番幸せな時なんだろうな、と金時は感じた。それでも常に、死神の足音は木霊している。タイムリミットは絶望的なまでに近いのだ。

「そんなに大事かあのペンギンお化けが…ちょっと飯作ってくるから。ミシュランもびっくりの絶品金さん御飯だからな。本来はめったに食えねーんだ、心して食えよ」
「…大袈裟な…まあほんとにおいしいですけど。意外な特技持ってますよね、兄弟揃って」

何気なく付け足された言葉に、一瞬空気が止まった。桂の顔にも、口が滑った、と書いてある。金時はふっと微笑んで、無言で台所に向かった。背後から桂のため息が聞こえた。

早すぎる死を迎える桂に、自分がしてやれることは悲しいほどに限られている。限られた中で、最大限のことをしてやるつもりだった。そしてそれを模索する内に、矢張りひとつどうしても気がかりなことがあった。

桂が兄に会いたいかどうか。

兄にまつわる話題は避けて来た。しかし、直接話題に出さなくとも、これまでのやり取りで桂にとって兄の存在は、とても大きなものなのだということはわかっていた。弟である自分と同じくらいに、兄が彼の短い人生の中で確かに息づいている。きっと桂は若いながらに、兄を本気で好きでいたのだろう。彼らの過去は何も知らない。苦い記憶もあるだろう。何より兄はもう結婚してしまっている。それも桂と同級生の、顔見知りの女と。 こんな時にわざわざ辛い思いをさせることはない。だけど、桂はもうすぐいなくなる。どう足掻いても、会うことができなくなる。ならば、一目だけでも会わせた方がいいのではないか。 もしかしたら、兄の方が断るかもしれない。兄にとっての桂は、ただ一時の遊び相手に過ぎなかった可能性の方が高い。それでも、兄にとって教え子であることには変わりはない。

(______電話だけ、してみるか)

一度そう決めてしまうと、すっと心が軽くなった。今から作ろうとしている夕飯の献立も、兄から盗んだものだ。それを美味しいと食べる桂の笑顔を思えば、一度ぐらいの再会なら、喜んでくれるだろうと思った。

お節介かもしれないが、兎に角自分にできることを、金時はがむしゃらにし続けていたかった。
そうでもしないと、桂を失った後の自分のことを考えて、気が狂いそうになるのだ。


次からは(今になって)銀八先生のターンです
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