休日の穏やかな午後に、弟から電話があった。
電話があったちょうどその時銀八は電話に出られず、後から着信履歴を見てその事実を知って、何か不穏な予感を覚えた。
銀八が結婚して以来、一度電話を寄越しただけで、ぱったりと音沙汰のなかった双子の弟からの電話というだけでも妙な話だが、
弟の職業柄常ならば睡眠中であって然るべき時間にかけてきたというのも妙だった。それに加えて、これまで一度も残したことのなかった伝言メッセージまで残していた。
何となく、一方的に弟の声を聞くのが憚られて、銀八はメッセージを再生する前に、金時に電話をかけた。
悪いニュースが舞い込んでくるだろう確信が、コール音が繰り返される間に強まっていった。
それも、史上最悪と言っていいほどのバッドニュースだろうと。
5回目のコール音で、金時が電話口に出た。俺だけど、どうした、と銀八はあくまで素っ気なく切りだした。
『兄ちゃん、…久しぶり』
「おー」
『調子どう?最近忙しいの?』
「まあ、普通だけど。なに、どしたの」
『…ああ、うん。ちょっとね』
金時はなかなか本題を切りだそうとしなかった。銀八も与太話をするつもりはなく、相手が話し始めるまで押し黙ることにした。
電話での沈黙時特有の、電波が痺れるような低い音だけが暫時耳に響く。
本当に回線が繋がっているのか怪しく思い始める頃になって、金時がようやく重い口を開いた。
「あら、もう電話終わったんですか?」
妙が台所から声だけでそう問うてきた。結婚しても、昔の癖で敬語が抜けないようで、彼女は今も学生時代と変わらない態度で銀八に接する。
そして、相も変わらない焼けた卵をせっせと量産し、しかも銀八に残すことを許さない。必然的に、銀八が日々の炊事担当になってしまっていたが、
休日だけは彼女の料理を食べることが義務付けられていた。
「あー…うん」
「金時さんでしょう?珍しいですね。何て御用件だったの?」
コイツには言わない方がいい、と銀八は思った。
「あー、いや、特に。暇だったみてぇ」
そんな銀八の言葉を妙は素直に信用し、そうですか、とだけ言ってまた料理に集中し直した。
いつもなら何とかあの悪妻の気を料理から逸らせようと何かと嫌がらせをする銀八だが、この時ばかりは何だか酷い倦怠感に包まれて、
安いソファに腰を落として、無意味に天井を仰いだ。
桂に会いに来てほしいんだ。
弟は、抑揚のない声でそんな頼みごとをした。声にこそ生気はなかったが、言葉の間合いや言い方から、弟の想いや切実さを銀八は感じ取ってしまった。
そして弟が、かつて自分が好き勝手に弄んだ挙句、結局救ってやることもせずに、真っ暗闇の中へと見捨てていった教え子に、どれほどまでの愛情を持っているかと
いうことも。
詳細な説明は省かれていたが、大まかに言うと桂は今重病で、もう長くない、最後に桂に会いに来てほしいというのが金時の話した内容だった。
以前電話口で、何の因果か桂が金時の世話役として居候を始めたことを聞いた。その時も、幾分動揺はしたのだが、今回に比べれば可愛いものだった。
あの時___桂が急に退学を決め、最後に校舎裏で話した時。彼が必死で嘘を吐いていることを、銀八は見抜いていた。
父親が事業の失敗を苦に自殺したことは事実確認が取れていて、疑う余地もなかったのだが、彼の行く宛があるという真っ赤な嘘を、銀八は看破していた。
にも関わらず、銀八は桂を救うことを選ばなかった。あの時桂に、手を差し伸べることができなかった。
いい大人になって、しかもこれまで桂の弱味を握って散々彼の気持ちを無視した行為を重ねて来たのに、あの瞬間、自分は確かに桂に拒まれることを恐れたのだ。
そして、きっと桂は本当に拒んだだろう。自分の始末は自分で付ける、異常に頑固な性格の桂は、たとえあの時銀八に多少の恋心を抱いていたとしても、
庇護を受けることを良しとしなかっただろう。
それでも、もしもあの時、最後に抱きしめた桂を突き離さなければ、こんなことにはならなかった。そう考えると、銀八は吐き気がした。
桂が去った後の自分の人生は、いわば罪悪感と共に歩んできたようなものだった、と今になって銀八は思う。
最初は、その後味の悪い感覚を、可愛がっていたペットの犬が保健所に連行されるのを黙って見ていたようなものだと思い込ませていた。
最初はもう二度と犬なんて飼うものかと心に誓うのに、罪の意識が薄れ、忘れたころにはまた別の犬が欲しくなる。そうなるだろうと、思い込んでいた。
桂という存在そのものが特別だったと気付いてしまえば、自分は八方塞がりになると本能的に察知していたのだろう。
まさか一生徒との戯れが終わっただけで、こんな最悪の気分に陥るなんて、当初は思ってもみなかった。
元々、生徒に手を出すつもりもなかった。自分の人生はけして真っ当ではなく、知らなくてもいいことや経験しなくてもいいことの方が多かったし、
性格や性癖もねじ曲がっているという自負もあったが、それでも教師という職に対してはそれなりに真摯に向き合っているつもりだった。
孤児院で唯一銀八ら兄弟の面倒を手厚く見てくれた吉田に憧れて選んだ職だ。学のない自分には、教員免許を取るということ自体が奇跡のような話だったが、
大検を取って何とか学費を工面して三流ではあるが大学に進み、遊びに来ているような周りの面々を尻目に真面目に努力してその奇跡を勝ち取ったのだ。
運よく今の高校に採用もされた。そんな努力の賜物である教員生活を、そう簡単に溝に捨てるわけにはいかなかった。
だが、桂とのことに関しては、偶然の悪戯とも言うべきだっただろうか。
銀八にとって桂は当初、最も鼻もちならない生徒であった。絵に描いたような優等生で、周囲からの人望も厚かったが、桂の目にはいつも蔑みの色が浮かんでいた。
彼の目は、自分は不幸だ、このクラスも教師も学校も、この世界も、何もかも馬鹿げている、と語っていた。
その目を見る度銀八は、何も知らねえガキの癖して、手前がどんだけ恵まれてるかもわからずに、と苛立ちを覚えていた。
いつも、自分は周囲に合わせてやっている、という態度で周りに接しているようにも見えた。
こういうクソガキの、無駄に高いプライドを滅茶苦茶に踏みにじって、尊厳も何もかも奪ってやれたら、どれだけ気持ちがいいことか。
女顔のそのツラが泣きじゃくりながら、己の卑小さを認め、大人の雄に服従する姿が見てみたい。そんな痴れたことを、銀八はよく考えた。
銀八は手始めに桂に不本意なあだ名をつけてやった。彼は律儀に「ヅラじゃありません、桂です」と一々訂正し、周囲がそれを笑った。
桂の瞳に、軽蔑と怒りの色が見え隠れするのが、銀八は逐一愉快だった。それでも、その時は桂を実際に凌辱しようなどとは思っていなかった。
しかしひょんなことから桂の秘密を握ることになり、思いがけない好奇心が沸いてきた。桂が自分を護るためにどう行動を起こすのか、純粋に知りたくなった。
あえて何もなかったかのように振る舞っていると、桂はやはり正直に告白するなどせず、あくまでも自分は被害者だという振りをして、
担任教師でさえ騙そうとしたのだった。
矢張りこいつは甘い。何もわかっちゃいない。そう思った銀八は、彼に報いを受けさせることにした。
今思えばそれは、教師生命どころかせっかく手に入れた真っ当な社会生活さえ永遠に失いかねない危険な選択だった。
桂が外部に漏らせば簡単に自分は卑劣な異常性犯罪者として逮捕され、マスコミの格好の餌食となっていただろう。
しかし幸運なことに、桂は頑として同性の担任教師に強いられている関係を口外しなかった。
彼は銀八が思っている以上に孤独であり、愚かだったのだ。
一度本気で銀八を殺して自分も死のうとしたことさえあった。最も憎むべき相手と心中するなんて、実に浅はかで、価値のない死だ。
更に愚かなことに、桂は自分に少しずつ心を開き始め、予想したより遥かに早く、また深く、自分に従順になっていった。
こんな形で強いられた深い関係でも、桂はそれを拠り所にしていたように見えた。彼は今まで大人に、いや他人に寄りかかることを許されなかったのだろう。
裕福で恵まれている環境にいるはずの桂には、孤児の自分と同じぐらい濃い孤独の影が付き纏っていた。
愚かと言えば、桂を凌駕する愚かさを己もまた持っていた。
いつの間にか桂のその空虚さに見えないぐらい深い部分で共鳴し、独占して庇護したいなどという、持つ資格のない感情を銀八も有し始めていた。
そうでなければ、説明のつかないことが多すぎる。
桂が勝手にその黒く豊かな髪を切り落とした時の常軌を逸した憤り。第三者が初めて自分たちの間に介入し、関係の解消かと思われた時に駆られた焦燥。
桂を手放さない為に、自分はどれほど卑劣で非人道的な方法を使っただろう。一人の正義感の強い青年の純朴ささえ姑息な手段で葬ってしまったのだ。
それなのに、最後の最後で桂を見捨てた。嘘に気付かない振りをした。
唯一自分が桂にしてやれたのは、今の今まで桂を忘れなかったことぐらいだ。
それだって、意識してやったことではない。忘れられなかったまでのことだ。
妙との結婚も、その実罪滅ぼしのようなものだった。
志村姉弟が高校を卒業して数年経ってから、彼らの父親が死に、家業であった店が潰れ、借金苦に喘ぐ事態となったことを人づてに聞いた時、瞬時に桂のことを
思い出した。思い出した次の瞬間には、弟の新八に電話して、職を斡旋してやる約束をしたのだった。
長年連絡を取っていなかった坂本に頼み、あまり危なくなく、かつ金になる仕事を新八に回した。
元々は坂本が自店でボーイをやらせていたようだが、少ししてから店のナンバーワンの世話役に回したいと提案された。
それはすなわち、弟の世話役ということだったが、弟には新八が自分の教え子だということを告げないように頼んだ。
弟が気を使うだろうと踏んでのことだった。金時はあれで、情に脆く気の優しいところがあることを、兄である銀八はよく知っていた。
当時妙は既に大学を中退して、水商売を始めていた。彼女はどうしても父の残した店を再建したかったらしく、借金を早く返して一から店を立ち上げようと
進んで夜の世界に入っていったのだった。
銀八は彼女の意思を尊重しつつ、時折連絡を取っていた。自分もかつてはそういう世界で生きていたことを告白し、色々と相談に乗っている内に、
妙から告白された。
幸いにして堅気の職を持つ自分が、このまま結婚して妙を扶養に入れてやれば、彼女を救ってやれるのではないかと銀八は思った。
あの時救えなかった桂を、妙を救うことで救ってやれることになるのではないかと、思い違いをしたのだ。
実際、妙は今専業主婦として、夜の世界とは縁を切って幸せな生活を送っているのだから、それは正しかったのだろう。
いつの間にか、妙の幸福そうな姿を見て、まるで自分の犯した罪でさえ全て浄化されたような気分に陥っていた。
だから、結婚してから暫くは、桂のことを思い出さなかった。
ところがたった今の一本の電話によって、銀八はその思い込みから解き放たれざるを得なくなった。
見て見ぬふりをしていた残酷な現実が、悲劇として目の前に立ち現れた。
いくら自分が真っ当な道を歩み、桂と似た境遇の姉弟を救ってやったとしても、桂を救うことにはならなかったということが、明白な事実として突きつけられた。
桂は若くして死ぬ。本来ならば味わって然るべきだった沢山のことを知らないままにして、ひっそりと死んでいく。看取る者は弟一人ぐらいのものかもしれない。
若すぎる死を嘆くべき親や、友人もいないままで、短すぎる人生の幕を引こうとしている。
それはきっと、銀八の選択によって回避することもできたことであるはずだ。
あの時桂を絶望から無理やりにでも引きずり出すことができたのは、自分以外にいなかったのに。
銀八は重いため息を吐いた。狭いキッチンからは焦げた匂いが漂ってくる。うららかな午後の陽が、煙草の脂で曇ったガラス越しに足元を照らしている。
いつもと変わらない自分の日常。生まれて初めて築いた家庭の日常。
それなのに、銀八の目にはそれらが急に色褪せて見え、そして何の価値もないものにさえ思えた。
桂のところへ行かなければならない、それだけがまるで神の啓示か何かのように、頭にはっきりと浮かび上がった。
会いに行って何をしてやれるわけでもない。そもそも桂が会いたいと思っているのかどうかもわからない。会ってどうなるかもわからない。
今まで必死で築き上げて来た色々なものを失うかもしれない。だけどそんなことはどうだってよかった。
それは、教師という職や、生活を天秤に賭けることもせずにただ己の欲望に沿って単純に行動した、最初に桂を手篭めにした日と似ていた。
桂に会いに行く。銀八はただそれだけを決めて、あとは全てを捨てる覚悟をした。