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「あら、飲まないの?」

珍しく朝に起きていた母親が、グラス1杯まるまる残された牛乳を見つけて桂にそう問うた。

「うん、ちょっと…おなか、下してて」

腹を下しているのは嘘ではない。あの後十分に処理をしなかった所為で、昨夜は下痢が酷かった。
だがそれだけが、桂が牛乳を口にしない理由ではなかった。
白く濁った液体は否が応でも昨日散々飲まされた銀八の精液を思い起こさせる。
味に関してはほど遠い。しかし、一目グラスに入った牛乳を見ただけで、視覚からあの苦みが蘇り桂は強烈な吐き気に襲われた。
母親はそれ以上は深入りせず、休むかと尋ねてきたが桂は首を横に振った。

「皆勤賞、狙ってるんだよ」

桂はにっこりと母親に微笑みかけ、行ってきます、と言って鞄を取り食卓を離れた。














穏やかな午前だった。
体調は優れないが昨晩ほどではないし、幸い体育も、何より国語もない。
神楽や沖田たちは身体を動かせずに退屈だとがなっていたが、桂にはありがたい時間だった。
休憩時間にトイレに立つぐらいで、あとはひたすら座っていられる。
尻の穴が腫れて痛かったので、タオルをクッション代わりにした。すると神楽も真似をしたがった。
タオルを貸してやったが、もう二度とそれが桂の手元に戻ることはなかった。
4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に、Z組の面々は生気を取り戻したように活気づき始めた。
桂が珍しく母親が用意した弁当を取り出すと、わらわらと新八や神楽が集まってきた。
特に一緒に昼食を摂る約束はしていないのだが、彼らは時々昼時になると桂の席に寄りついた。
銀八と仲がいいので、銀八が教室で昼食を摂るときは__よく生徒からおかずを巻き上げているようだが、
桂はその被害には遭ったことがない__そちらへ行っているようだが、そうでないときは何故か桂と一緒に弁当を広げるのだった。
けして嫌いではない。しかし彼らが来ても来なくても、桂にとってはあまり大差ないことだった。
一人が好きだと周囲には思われがちだが、孤独主義と言うよりは特に興味がないだけなのだ。
隣に誰かいようがいまいが興味がない。誰かと一緒に行動したいとは思わないが、あえて一人になろうとも思わない。
神楽は明るくて面白いし、新八も気遣いのできるいい人間だと思っている。
だから桂にとって新八や神楽と食べる昼食は、けして不味いものではなかった。

ただ、今日だけはそうではなかった。


「神楽ちゃん、今日購買?珍しいね、いつもの重箱は?」
「レディーには意味もなくめっきり食欲のない日があるネ。
今日はあんまり胃に来るもの食べたくないっていうかァ、あっさり系しか口が受け付けないっていうかァ」

そうは言うが、神楽の机の上には乗り切らないほどの量のパンやおにぎりやサラダ類が積まれていた。
そして机の脇には、紙パックの牛乳がずらっと並べられている。


「こんなに牛乳たくさん買って…まさか神楽ちゃん、全部飲む気?」
「なんだヨぱっつぁん、欲しいなら欲しいって言えばいいアル。
ほら言えヨ、生まれてこの方水道水しか満足に飲んでこなかった哀れな眼鏡に神楽さまの貴重な牛乳をお恵みくださいって」
「なんだよその設定!!何で僕水道水しか飲まないキャラになってんの!?牛乳ぐらい飲んでるよ毎朝!!」


ふたりの漫才のようなやりとりを眺めながら、桂は甘すぎる出し巻き卵を口に運んだ。
冷凍食品や惣菜ばかりの弁当の中で、母親が作った唯一のおかずである其れはどれよりも桂の口に合わなかった。
砂糖が多すぎる。よほどの甘党でない限りこんなものは好まないだろう。
不意にあの白髪頭が脳裏に過ぎり、桂は少し胃が押し上げられるような感覚に陥った。


「ヅラぁ、お前も牛乳が欲しいならそのヅラ取ってお願いするアル」
「ヅラじゃない桂だ。いや、リーダー俺は牛乳は苦手なのでなこのヅラは取れない」
「えぇえ…ヅラかぶってるってことは肯定するんだ…何なんだこの人…」
「ヅラじゃない桂だ、ていうか地毛だ」


意味のない会話の応酬をしているうちに、神楽の興味は新八の弁当箱の片隅にある焦げた物体に移っていた。
桂は馬鹿げた常套句を言った後例の甘い卵焼きを咀嚼し、新八も何かぶつぶつ言いながらも水筒のお茶を啜った。



「へぇ、桂くんは牛乳がお嫌いだったんですかィ。それは初耳だなァ」



どこからともなく、沖田があんパンを片手にそう言いながら現れた。
すぐ近くで風紀委員たちも昼食を摂っていたらしく、一連の会話の流れを聞かれていたようだった。
沖田は机の牛乳を取り、まじまじと眺める。神楽はてめっ、勝手に触んじゃねぇヨ!と騒ぎはじめ、新八はそれを諫める。

桂はまずい、と感じた。
沖田の表情からはろくでもない悪意を感じる。
日頃から目の敵にしている桂の小さな弱点を見つけ、遊んでやろうというつもりなのだろう。
桂は覚悟した。
どんなことをされても耐えよう。きっと自分は平気だ。こんな子供っぽい男にひれ伏すなんぞ、真っ平御免だ。
桂はそっと自分に渇を入れた。


 沖田は紙パックの口を開き、ぎゃあぎゃあ叫ぶ神楽を尻目に自分を睨め付けている桂の方に向き直った。

「桂ァ、手前の嫌いなもんから逃げるなんてあんたらしくもねェじゃねぇかィ。
ほら、今日ここでこの白い液体と決着をつけようぜィ」

「断る。そんなもの飲めなくても煮干しでカルシウムは補える」

例によって、クラス中が沖田の始めようとしている面白そうな催し物に好奇の目を向け始めた。
沖田と桂、ふたりの因縁の対決といった具合に誰かが囃し立てる。
くだらない。何なんだ此奴らは。
桂はその場に居る全員に対して平等に軽蔑を込めた視線を投げかけた。
沖田はもちろんのこと、もう桂が何かアクションを起こさない限り収拾がつかないようにこの場の空気を作り替えた傍観者たちも、
実に下等だ。桂は微動だにせず、沖田がちらつかせる水色の紙パックを睨む。

「まぁまぁ、桂にだけ嫌いなもんを喰えとは言いやせん。俺だって鬼じゃねェ」

そう言うと沖田は、こちらに背を向けたまま興味なさげに黙々と食事を摂っている土方の手の中にある
マヨネーズ塗れの団子を一串奪った。

「あっ総悟てめぇ!!俺のデザートに何しやがる!!くだらねぇ争いに巻き込むんじゃねぇ!!」
「これがデザートだなんて言うのはこの世の中であんただけでさァ」

言うと、沖田はどろどろした脂がかかった一串を一気に口の中に押し込んだ。
おおっという歓声に混じり、悲鳴のようなものも上がる。
桂も予想していなかった沖田の突飛な行動に、思わず眉を顰めた。

「…うぇっぷ、まじぃ。桂ァ、これでおあいこでさァ。さ、牛乳まるまる一パック飲んでくだせェ、一滴も零さずに」



全部飲めよ。一滴でも零したら、最初からだから。



昨日の低い声が蘇る。
実際にあの男に囁かれたような感覚に桂は総毛立ち、同時に吐き気と動悸が襲った。
明らかに表情を崩した桂に沖田が不敵な笑みを投げかける。
教室内は沖田の身を呈したパフォーマンスに沸き、当然次に行われるであろう桂の其れを期待している。
銀八の命令を思い出しただけで、桂の思考は置いてきぼりになった。
今直面しているこの事態の対処法よりも優先的に、昨日受けた虐待の記憶が脳裏に浮かぶ。
目の前には昨日、散々口に出され、咽喉が焼けて朽ちるほどに飲み下せられた精液と同じような色の飲料。
他に選択肢はなかった。
桂はほぼ本能的に、手を伸ばして牛乳を口に近づけ、ぐいと飲み干した。
再び歓声。

 突然、生臭さだけが桂の舌に忍び込んだ。
そして否応なしに押し寄せる青臭い担任の精液の味を察知する。
気持ち悪い。
そう思った瞬間にはもう、桂の胃は逆流していた。

 歓声は止んだ。当然だった。桂は体内から押し流される吐瀉物を止めることができず、昨日の国語準備室でそうしたように、
椅子から転げ落ちて床に胃の中のものを吐いた。
先ほど食べた甘い卵焼きの味が、たくさんの苦い液に混じってほのかに香った。

「…桂さん…!?大丈夫ですか…!?」

たまらず新八が駆け寄るが、その声には哀れみより寧ろ当惑の色が強く現れていた。
周囲も、急に激しく嘔吐した桂に驚いている。心配の声がか細く掛けられるが、それすらもどこか怯えていた。
そこまで牛乳嫌いだったの、という声がする。恐らく声の主は猿飛だろう。

「てんめェェエ!!ワタシの舎弟になんってことしたアルかああぁあ!!」
「知らねーよ、まさか吐くほど嫌いだとは思わなかったんでィ。俺ももらいゲロしそうだぜィ…うえっぷ、あんな犬の餌喰うもんじゃねえや」
「おい総悟、悪ノリも大概にしろよ…ほら、雑巾持ってこようぜ」

桂は顔が上げられなかった。
羞恥と、何より屈辱感で身体中が充たされていた。このまま消えてしまいたい、と切に願った。

どうして俺がこんな思いをしなきゃならないんだ?

饐えた匂いのする、自らが撒き散らした吐瀉物に溺れながら桂は涙を堪えるのに必死だった。
また胃液が押し上がってきたが、何としてでも押さえ込んだ。
新八や山崎が、背中をさすっている。
しかしそれすらも今の桂にとっては侮辱でしかないように思えてしまった。

何人かが掃除用具を取りに行こうとしたとき、ガラリと戸が開き、銀八が教室に入ってきた。

「なーに、なんかあったの…って、うぅわ」

教室の床にあるまじきモノに目をやった瞬間、銀八の表情はさも醜いものを見たというように歪んだ。
そしてしゃがみこんでいる新八と山崎、その周りを囲んでいる沖田や神楽、風紀委員たちを見たあと、
最後に床にへたりこんでいる桂に視線を遣った。
誰かが昼休みに起きたことの顛末を小声で銀八に伝える。
銀八ははぁ、と深くため息を吐いてから、まさにその現場である教室の後ろに歩み寄ってきた。

「お前らなぁ、はしゃぐのはいいけど。限度ってもんを知れ、な?」

銀八はぺしんとか弱い音を立てて沖田の頭を軽くはたいた。

「悪かったよ、桂。まさかマヨネーズ団子よりも牛乳が苦手だとは思わなかったもんでねェ」

沖田は不本意極まりない様子で桂にそう謝罪した。桂は乱れた髪の隙間から、
沖田を見上げて悪態をついて唾を吐きかけたい衝動を必死で抑えながら、こくりと小さく頷いた。

「おい、平気か」

銀八が問う。同じように桂は反応した。予鈴が鳴り、次移動だよね、と誰かが気づく。
観衆たちは妙な騒動に巻き込まれたことを悔いるように、ばたばたと教室を出て行った。
新八や山崎、それに神楽やお妙たちが掃除道具を持って床の清掃にあたろうとする。
すると、それを銀八は何故か制した。

「え…でも」

「いーから。桂」

意外そうな面持ちの彼らから掃除道具を奪い、銀八はそれをあろうことか桂に差し出した。
桂は顔をゆっくりと上げる。たった数分の間に憔悴しきった桂に向かって、銀八はこう言い捨てた。

「手前の始末ぐらい、自分でできるな?」

長い間を空けてから、桂は震える手で差し出されたモップを受け取った。
先ほどと全く同じだ。受け取る以外他に選択肢が用意されていない。
この行為は他の生徒にも衝撃を与えたらしく、皆唖然としている。
そんな彼らを銀八は行った行った、と促した。
心配そうな視線を向けつつも、本鈴を耳に受けながら生徒たちは恐々教室を出て行った。
銀八は最後の一人まで教室から送り出してから、桂に一瞥を投げ自らも教室を出た。
最後まで粘った新八が、銀八を追いかけていくのが見える。今の行為を咎めるつもりなのだろうか。
そんなことをするぐらいならこっちへ来て、手を差し伸べてくれればいいのに。
桂は確かに絶望していた。そして、それと同じくらいの敗北感が彼を襲った。
目の前には自身が撒き散らした汚物が広がっている。手にはモップの柄が握られているが、殆ど感覚はない。
鳴り終わったチャイムの音の余韻が静かに反響する。
教室には誰もいない。
ただ呆然とするしかなかった。
クラスメイトたちは彼らの倫理よりも、あの教員の言うことに従ったのだ。
普通に考えればこの状況で手を貸すのが当然だろう。なのに担任の命令を受け入れて教室を出た。
そして自分はあいつの思う通りに、今から床を綺麗にし、掃除用具を洗って片付け、身なりを整えてから教室を移動し、
クラスメイトのえもいわれぬような視線に晒される。

涙も出なかった。ただ、逃げたかった。
いっそのこと自分の、未だにまともに振る舞おうとする精神に乗っ取られた身体から逃げてしまいたかった。
それでも桂は蹌踉めきながら立ち上がり、機械的な動作で後処理を始めた。動いてしまう自分の腕や足の筋肉も神経も呪った。


「桂さん」


あらかた掃除を終え、用具を片付けようとしたときだった。
新八が困ったような笑顔で扉のガラス越しに桂に会釈し、扉を開けてこちらへ歩を進めた。

「手伝います。大丈夫でしたか?」

モップを受け取りながら新八は心底心配そうに尋ねた。
湯に融かされていくように、安心感が心にじんわりと広がった。
枯れたはずの涙が蘇りそうになったが、泣くことは許さなかった。

「大変でしたね…」

二人して水道で汚れた雑巾とモップを洗いながら、新八は言った。
ごぼごぼと音を立てて汚水が排水溝に吸い込まれていく。桂はこくりと頷いた。

「すいませんでした。僕らも、止めるべきだった」

新八の優しい態度に、桂は少しだが自分が救われたように感じた。
彼が、志村新八がこんなに他人を思いやれる人間だとは知らなかった。
たった一人からの慰めがこんなにも嬉しいなんて。
桂は彼になら今自分が置かれている状況さえも相談できるのではないかとまで思った。
考えてみると、先ほども銀八を追いかけていったのは新八だけだった。
もしかしたら、新八はあの男の爛れた本性に気付けるただ一人の人間なのではないだろうか。
そう感じたのもあって、桂はほぼ考えなしに、流水音の合間からぽそりと本音を吐露した。

「…あの男、殺してやりたい」

新八の手が止まった。次いで、あの男って、と彼は戸惑い気味に尋ねた。

「沖田さん、ですか?」

桂は首を振る。それだけで、言わずとも殺意の対象はただ一人に絞られる。
新八は暫く黙っていた。流れる水の音と、雑巾をこする音だけが空間を埋める。

「桂さん、僕さっき先生を怒ったんです。どうしてあんなことしたのかって」

きゅ、と小気味よく蛇口が閉められる音。そして半分の静寂。
桂は空気を悟った。ゆっくりと新八に顔を向ける。


「先生、あそこで手伝わせたら桂さんの自尊心が今度こそめちゃくちゃになるって。
みんなの前で吐いただけでもプライドはずたずただろうに、それを誰かに処理してもらうなんて、
プライドの高い桂さんには耐えきれないだろうって、そんなようなこと言ってました」


桂は愕然とした。
彼奴の言葉にもだが、それを信じている様子の目の前の同級生にも、同等かまたはそれ以上の負の感情を抱いた。


「桂さん。僕は、銀八先生は確かにちゃらんぽらんで、教師失格な言動も多いと思うけど、でも」


新八の目は真っ直ぐだった。それはあの教師へ向けられた信頼、あるいは尊敬の念の揺るぎない証拠であった。



「僕はあの人を尊敬してます。今回のことも、先生なりに桂さんのことを考えた結果だったんだって信じたい」



桂は身体が熱くなるのを感じた。比例して、彼の内側は急速に冷えていった。
窒息しそうな感覚と、痛み始めるこめかみ。新八の眼鏡の奥の両眼は尚も歪むことはない。
世界が止まる。



「……にも」

「…え?」


「何も知らないくせに!」


桂は理性をも失い、激昂した。蛇口も止めずに、汚れた手のまま足早にその場を離れた。
背後から桂さん、と自分を呼ぶ忌まわしい声がする。思わず耳を塞ぎ、走った。


尊敬?俺のことを考えての行動?ふざけるな。
ふざけるなふざけるなふざけるな巫山戯るな!
だったらお前が俺の代わりになればいいだろう。
尊敬しているその担任教師に組み敷かれ服を剥がされ尻の穴を広げられ、奴の男根をケツから体内に受け入れその精液をも搾り取ればいいだろう。
尊敬している人間になら何をされてもいいだろう!
息が上がり、ついでに涙も鼻水もぼろぼろと溢れ、酸素が不足していく。渡り廊下まで来て、喘ぎながら桂は歩調を緩めた。
そして力尽きるようにして、その場にずるずるとへたり込む。

「…ッあぁあ…ああああああァああァ!!!!」

何もかももう分からない。何もかも消えてしまえばいい。みんなみんな死んでしまえ。

ふ、と脳裏を今まで避け続けてきた策が浮かんだ。
これまでちらついてきたその思想を桂は見据えたことがなかった。
しかし今となってはもう、救済の道はそれ以外に残されていないように思える。

そうだ。最初からそうすればよかった。
俺は一体何のために其れを無視し続けてきたんだろう?
俺には始めから何もないのに。

そう思った瞬間、桂の心は久しぶりに軽くなった。

すべて終わらせよう。終わらせるんだ。

涙も徐々に乾く。
桂は立ち上がり、よろつきながらもしっかりとした足取りで教室へ荷物を取りに戻った。








ぱっつぁんにはいつも損な役回りを演じていただき、誠にすいまめん