7
思えば生まれてから、この世を愛したことなど一度だってなかった。
「かたじけない」
薄紫色の夜明けの公園に、桂は高杉と朝露に濡れたベンチに腰掛けていた。
鴉が何羽かばたばたと喚きながら鳴いている。
「いくらだ?」
「5000でいいぜ。安物だ、その割に切れ味はいいけどな」
桂は高杉から買ったサバイバルナイフに視線を落としながら聞いた。
言い値を支払うと、高杉はどーも、と言って欠伸をひとつした。
「それにしても、急にんなもん欲しいなんてどういう風の吹き回しだ?」
軽快な音と共に煙草に火が点けられる。じり、と紙が燃える音。
紫煙を鼻孔に感じ、あの男への憎しみがちらりと胸を掠めた。
「別に。護身用だ」
「何だよ、誰かに狙われでもしてんのか?」
その逆だ、とは言わずに桂は嘲るように笑いながら首を振った。
切っ先を指の腹でなぞると、まるで快楽殺人者のような気分になった。
「行くわ」
煙草を地面に落とし、高杉は立ち上がった。ああ、と桂は気のない返事を返した。
「…そういえば、あれから自重してるのか」
桂が何気なく聞くと、高杉は見透かしたようにいやらしく笑んだ。
「いや。まあでも、お前にはもう迷惑かけねぇよ。もっと立派な後ろ盾ができそうだしな」
じゃあな、と言って彼は踵を返し、淡い闇の中へと消えていった。
二本目の煙草の煙だけが、遠く離れてもよく見えた。
これが今生の別れか。実にあっさりしたものだ。
桂は相変わらず切っ先を撫ぜながら思った。生ぬるい風が肌に纏わりつく。
遠くでトラックの走行音が聞こえた。
少しだけ、桂は後悔していた。
もっと早い段階でこれを計画していれば、もっとあざとく、もっと賢く、自分の人生を護りながら
憎い相手をこの世から消せたかもしれないのに、と。
しかしその勇気は桂にはなかった。
だから、自分の精神が限界に追い込まれるまでだらだらと耐えてしまったのだ。
だが、これ以上は待てなかった。時期尚早であるし、愚かであることぐらい自分が一番よく分かっている。
今まで直ぐに逮捕される殺人犯などを見て、何故もっと慎重に計画を立てなかったのかと蔑んでいたが、そんな余裕は
彼らにはなかったのかもしれないと今になって理解した。
ただ、桂は自分が殺した相手に支配され続ける人生だけは絶対に御免被ると思っていた。
彼奴を殺すことが罪ならば、彼奴のしてきたことは一体何だと言うんだ。
憎悪は衝動に変わる。そして後には、虚無しか残されないだろう。
そんな世界で、今よりももっと空虚な世界で、浮き彫りになるのは殺した対象ばかり。そうなるのは目に見えている。
殺しても殺さなくても、俺を支配するのは坂田銀八なのだ。
それならば、もう全て終わらせてやる。こんなところに、未練などない。
一刻も早い解放を。絶望という名の監獄から、早く、早く。
桂は深呼吸をして、やっと昇り始めた太陽を頬に受けながら、立ち上がった。
これが俺の最後の日なのだ。
「失礼します」
そのとき、驚くほどに桂の感覚は研ぎ澄まされていた。
いつもは地獄と見まごう国語準備室も、出口が見えた今ならばただの煙臭い小部屋でしかない。
部屋の主は、放課後の突然の生徒の来訪に少し驚いた顔をした。
しかし扉を開けたのが桂だとわかると、仮面を脱ぐようにするりと表情が賤しいものに変わった。
銀八の視線を受けながら、シャツとベルトの間に挟んだ鋭利な刃を意識する。
すると今までにないほどの開放感を感じることができた。
「…どーしたの?」
その声を合図に、桂はゆっくりと銀八の座る教員椅子の方に歩を進めた。
銀八の目の前で立ち止まり、見下げながら桂は言った。
「先生、あなたを殺しにきました」
言葉にするとひどく陳腐で、何と戯曲めいていることだろう。
戯曲、というよりは茶番である。此所で終幕だ。桂は心の中で嘲った。
冗談だと捉えて笑うかと思ったが、銀八は何も言わず桂を見上げながら煙草を吹かし続けた。
桂も何も言わない。対峙は煙草の火が消えるまで続いた。
「おまえさ」
桂は身構えた。腕を後ろに回し、いつでも凶器に手が届くように姿勢を整える。
しかし銀八は、意外な質問を投げかけてきた。
「俺を殺したあとのこと、ちゃんと考えてるの」
一瞬意味がわからなかったが、殺人を犯したあとの桂の人生が転落の一途を辿るという忠告でもって殺意を
萎めさせようという魂胆だとすぐに理解した。
「関係ないでしょう」
「死ぬ気じゃねえだろうな」
銀八の表情は真剣だった。諭す表情。まともな教師の顔だ。
置かれている状況は狂気の沙汰だというのに、この男は今までで一番人間らしい顔をする。
桂は少し混乱した。ますます坂田銀八という男がわからない。もしかして、まだ本気にしていないのだろうか?
桂は思いあまって、背から朝方手に入れたばかりのナイフを取り出し、刃を銀八に向けた。
「…俺は本気ですよ」
「あたりめぇだろ。これが冗談だったなんて言ってみろ、俺がお前を殺すぞ」
銀八は睨むように桂を見上げながらそう言った。
あまりにも予想外の反応に、桂は今度は明らかに動揺した。握る刃が少し震える。
この男、何を言ってる?
こめかみがきんと張り詰めた。
「……あんた、自分がどういう状況かわかってるんですか?」
「殺すんだろ?俺を」
何でもないことのようにそう言って、銀八は新しい煙草に火を点ける。
「それが俺の望みなんだよ。小太郎」
「は…?」
煙。生命を奪う立場にいるというのに、桂のイニシアチブは紫煙にすら圧倒されている。
相手の言わんとしていることが、今の桂にはこれっぽっちも理解できなかった。
「愛してる人間に殺されるのって、この世で一番幸せなことだろ?」
そう言うと、銀八はにこりと笑った。
桂は騙されるな、と自分を叱咤した。それがこの男の手だ。俺を愛してるなんて、嘘に決まってる。
しかしそれは殆ど暗示に似ていた。
だってそんな甘やかな言葉と、演技とは言え見たこともないくらいの優しい笑顔。
偽りでも初めて向けられるもの。傾いだ。
「だから小太郎。俺はね、待ってたんだよ。
お前に、殺されるときを」
厭だ、聞きたくない。桂は耳を切り落としたい衝動に駆られた。
嘘だ、虚偽だ、戯れ言だ、全部頭では分かっているのに胸が灼けるようである。
憎んだはずの紅い瞳が穏やかな光を宿して此方を見ている。
桂は頭を振り、雑念をも振り払おうとした。
決めたはずだ、何をするかは。
少しだけ残っている良心や生への執着を利用されて、此所で言いくるめられて仕舞えば負けだ。
「でも、もしも俺を殺したあとろくな計画もなく手前も死ぬ気でいるっていうんなら、俺は絶対死なねぇよ」
桂は、殺そうとしている筈の相手の目を見ることができなかった。
ただ、自分のナイフを持つ震える手をぼんやりと視界に入れている。吐き気が少しした。
「お前には、生きててほしいからね」
その言葉に桂は息を呑んだ。何て、残酷なことを言うんだ。
堪らず銀八を見ると、少しだけ、哀しそうな瞳をしているように見えたが、それも錯覚なのだろうか。
唇を噛みながら、次の刹那に取るべき行動を考える。
このまま、この両手に力を込めて目の前の無抵抗な男の胸を貫くか、刃を納めるか。
だが後者を取って、平穏無事な日常が戻ってくるはずもない。
しかし今の自分に、この男が、いや人間が殺せるだろうか。
不意に、ナイフを持つ手を強く引かれた。
「いた…っ」
「死なねぇって約束しろ」
「、え…」
「約束。して」
此方を見上げる銀八の顔は、まるで迷い子のように寂しげだった。
本当に桂が死ぬことを畏れているような、そんな顔だった。
桂は、もうこれが演技なのだと思うことすら出来なかった。銀八の言動総てが虚偽だという自信も消え失せた。
それでも矢張り、素直に彼を受け入れることなど出来ない。沈黙を強く。
ぎゅ、と掴まれた腕にまた少し力がかけられ、思わず桂は軽く頷いた。
すると、銀八は「よかった」と、心から安心したような表情と声音でそう言い、一旦腕を放した。
そして、次の瞬間、あろうことか刀身をひどく強い力で握りこんだ。
「……!?」
ぶち、と皮膚の繊維が切れる音が微かに聞こえ、想像以上に夥しい量の血液が冷たい刃と銀八の手の甲を紅く染め上げていった。
混乱し、咄嗟にナイフを放そうとする桂を制止し、銀八は其れを首もとまで一気に桂ごと引き寄せた。
「ッあ…っ…!」
「…早く、小太郎。お前がやんなきゃ、意味ねぇんだよ」
白衣の襟元に銀八自身の血のしずくが垂れて、瞬く間に生々しい朱が生まれる。
銀八は血など気にも止めず、刃の腹を垂直に頸動脈の真上に立てた。
この状態で、桂が腕を引けばいとも簡単に銀八は大量の血を噴出し、死ぬ。
それは桂が望んでいた結末に相違なかった。
地獄の出口は地獄の主によって今まさに開かれている。それはわかっている。わかっているけれど。
「…ましょ…」
「え?」
「こんな…こと…やめましょう…」
耐えきれずそう言うと、ぼろぼろと涙が面白いように溢れてきた。
何て、情けないんだろう。それでも涙は止めどなく流れた。
視界が滲んで、見えるのは鮮やかな朱だけ。
銀八がゆっくりと手を放すと、真っ赤なナイフがからんと虚しい音を立てて床に落ちた。
「う……っく、うぅ…っ」
「おいで」
嗚咽も膝の震えも止まらず、しゃくり上げる桂を銀八は床のナイフと同じ色の手で引き寄せ、
華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。
傷のない方の手で、桂のあでやかな黒髪を優しく撫で、耳にかける。
直に銀八の匂いを感じる。つんとした香水と、煙草の匂いがした。
桂にとって、誰かにこんな風に抱き締められ、あやされるのは初めてのことだった。
小さい頃ですら、共働きで忙しかった所為か、親にそうされた記憶もない。
桂自身、常にしっかりして誰にも迷惑をかけまいと心がけてきた。
そうしている内に、桂は周囲から独りでも生きていけると見なされ、自分でもそう思うようになっていった。
だから、今自分がこんなにも安心していることが、ひどく不気味だった。
しかも、つい先ほどまで自分が殺そうとしていた人間の腕の中で、そのような赤子のような感覚に浸っているのである。
非常に奇妙な状況には間違いない。
「…人を殺すって、そんな簡単にはいかねぇよ」
ぼそりと銀八が囁いた。相変わらず、手は桂の髪を梳いている。
「其奴の魂も歴史も、何もかも奪っちまうんだ。
自分のこれからも今までも、誰かを殺した時点で全部ゴミになっちまう。
誰かを殺すってことは、其奴のために手前の総てを犠牲にするってことなんだよ」
まるで殺したことがあるような言い方をする。桂は黙って聞いた。鼻を啜る以外何も音は発さなかった。
「本物の殺人が犯せるのは憎しみでも、私利でも何でもない。愛しかねぇんだよ」
言うと銀八はゆっくり腕の力を解き、涙でぐしゃぐしゃになった桂の顔をじっと見つめた。
桂は椅子に座った銀八の膝に跨っている状態で、彼を見つめ返した。
「だから、お前が死ぬときは、俺に殺されるときだ」
どちらからともなく、二人はキスをした。
口づけを交わしながら、桂はその言葉に妙な現実を感じていた。
舌を絡めたのは桂からだった。
やっと前に進んだ…かな?
DMCハリウッドリメイクらしいねーネタ切れハリウッド
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