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1日で最も憂鬱な音と言える、1限目の本鈴がけたたましく鳴るその僅か10分前。
Z組のある3階の廊下の一番隅にある小汚い男子トイレは、落書き数・煙草の吸い殻数・破壊率での三冠を
達成していることで校内でも有名な場所である。
そんなところに朝早くからやって来る男というのは悪戯目的か、朝の一服をし忘れた喫煙者かのどちらかであるのだが、
今朝はそのどちらの目的も果たしていない男二人が、もう随分と長い時間奥の個室に閉じこもっていた。
無論、二人一緒に一つの個室に。
「ん…っやぁ…っハ、いたぃ…」
「…我慢して、いい子だから」
桂は不自然な体勢で頭の天辺を薄い壁に押しつけ、体内を犯し続ける暴力的な雄の律動に耐えていた。
不自然、というのは、両腕を革製のベルトで後ろ手にきつく縛り上げられているためである。
支えにできるものは頭ぐらいというわけだ。
ごく消極的な腰の前後運動ではあるが、暗く汚らしく、何よりも狭い個室という場所的な問題と、
手の自由を奪われていることで抵抗の余地すらない状況のおかげで桂の感度は尋常の倍であった。
しかし声を抑えなければ、ちらほらと登校し始めてきた生徒たちに勘づかれてしまう危険性がある。
桂は必死で唇を噛み、なるべく音を立てないようにした。
「あ…、ふ、んむっ…んんっ…」
ふいに、銀八が桂の唇の間を割って右手の人差し指の付け根を押しつけた。それで桂は理解した。
ここ何週間かやってきたように、銀八が差し出す儘に銀八が自ら付けた掌の切り傷を犬のようにぺろぺろと舐める。
もう傷は大分癒え、包帯も少し前に外れた。しかし銀八はこの行為を、セックスする度に桂に強き続けている。
どういう意図があるのかは知らないが、桂もとても逆らう気にはなれずに促されるまま紅い舌を丹念に転がすのであった。
「ん…ん、んっ、はん…っや、あッ、はっ、」
「…は、お前、舐める度締まんね」
くしゃ、と銀八は桂の長く美しい髪を乱暴に、崩すように掻き上げた。
桂の身体のバランスは限界に近づいていた。全体重の負荷が頭ひとつにかかっていて、言うまでもなく腰から下も自由が利かない。
今は舌と言葉、それに髪の一筋さえも銀八が操作している。
流石にもう解放されたかった。だがその旨を伝える術もない。
「は、ふ、うぅ…も、やぁ…んぅ、ッ…せンせ…おねが…」
「…ちょ、マジかよやっべ」
銀八がそう言った瞬間、がばりと右手は桂の口を覆った。
急に酸素が更に欠乏したので、桂はひっとのどを鳴らした。
「…悪ぃーな土方さん。一本恵んでもらっちまって」
「…ったく、此所で吸ったのがバレたら俺ァ風紀委員クビなんだぞこのマダオが。
Tazpoさえなけりゃ俺だってこんなせこい真似せずにすむってのによ…せちがれぇ世の中だぜ」
「なぁに、この借りは返すって!また20歳に見えなくてコンビニで止められるようなことがあれば、俺が代わりに買ってきてあげるからさっ」
「その話は蒸し返すんじゃねえ!!」
Z組でも銀八と、滅多に姿を見せない高杉を含めても4人しかいない愛煙家のうちの2人_長谷川と土方が、
よりにもよって今、喫煙所代わりのこの便所に肩を並べてやってきた。
桂もこの非常事態を瞬時に察知し、思わず引き攣った喉と整わない息を憎んだ。
普段つるんでいるようには見えない土方と長谷川だが、意外にも喫煙というつながりがあったらしい。
ただ桂は、今この瞬間はその絆を引き裂いてやりたい気分だった。
「…1限国語かぁ。まぁ銀八さんだしな、寝てても怒られねーしいっか、ははは」
「授業は真面目に受けとかねえと、また留年だぜ長谷川さん」
「俺は留年なんてしてませんんん!!ちょっと人より老けてるだけですううう!!」
一連の和やかな談笑の背後で、桂は銀八に口を塞がれ、その男根を体内に導いたまま、身動きひとつせずにじっと耐えていた。
銀八もじっと外の様子をうかがっている。狭い室内に、極度の緊張だけがびりびりと渦巻いている。
幸いにもすぐに、ふたりの愛煙家は吸い殻を二人がいる隣の個室の便器に落とし出て行った。
ぎぃ、という戸の軋む音を合図に、銀八は桂の口を解放した。
「ッはぁっ、は…ッ…ん、ふ、ひんっ、ひゃぁッ…!?」
「何か、燃えるねこーいうシチュエーション…」
銀八は容赦なく腰をねじ込み、前後に上下に激しく桂を揺さぶる。
それまでの静寂を殺すように、がたがたと動作に合わせて薄い壁や戸が震え、行為の激しさを物語る。
頭だけで全身を支えている桂にとってそれはひどく苦しく、辛いものだった。
がんがんと頭が壁に打ち付けられ、その度に息が止まりそうになる。
「ん、や…っせんせ、もっ…とゆっくり…ぃ…っ!あ、あふっ、ひあぁっ」
「声抑えろよ。まだ近くにいるかもしんねーだろ」
「だ、って…!ふ、あああっ、あ、んァ、せんせぇ…ああぁあっ!」
桂が一際甲高い声を上げたとほぼ同じタイミングで、銀八は器用に桂の両の腕を拘束していたベルトを取りさらった。
当然、バランスを大いに崩した桂は腕を壁に思い切り付くことになり、吐精したばかりで足腰に力も入らずに、
そのままずるずると床にへたり込んだ。
その直後だった。
「…っひ…!?」
ぱたっという音と共に、髪に何かどろりと生温かい液体が付着するのを桂は感じた。
それが見慣れた銀八の精液だということを察知するのに、悠に十秒以上を要した。
荒く呼吸を繰り返しながら、桂はそのおぞましい行為に背筋が凍り付くのを感じた。
「次、出席にしとくから」
無造作にベルトを付け直し、何事もなかったかのように銀八はあっさりと立ち去った。
ろくに掃除もされていない汚いタイルの床に崩れ落ちた桂のことなど、見えていないかのようであった。
ぎぃい、と引き戸が勢いよく軋んで閉まる。そのすぐ後に、計ったように正確にチャイムの音が鳴り響いた。
桂は震える手で、髪に付着している精液を拭ったが、其れは掌に移動しただけだった。
咄嗟に、トイレットペーパーを巻き取り狂ったように手を拭いた。粘度の高い其れはなかなか取り払えない。
必死にその行為を繰り返しながら、桂は悔しさと屈辱感に唇を噛んだ。
どうして、こんなことをするんだろう。やはり、俺のことが憎いのだろうか?
憎くなければこんなことするはずがない。
そうだ、何が愛してるだ、愛している人間に対してこんな仕打ちできるもんか、そんなことを桂は思った。
あれから__銀八を殺す殺さないと喚いた後も、銀八の態度はさほど変わらなかった。
翌日には国語準備室で立った儘抱かれた。勿論その際にも、銀八は桂に包帯が巻かれた手を愛でさせることを忘れなかったのだが。
寧ろ変化したのは桂の方であったと言える。
罪悪感からか、負い目を感じているからか、慣れであるのか、それとも。
いずれにせよ桂にとって、以前ほど銀八に抱かれることは苦痛ではなくなっていた。
銀八の悦ぶような懇願や、それらしい声も出るようになった。
だがそれだけである。厭な行為であることに全く変わりはない。
それでも、相手を抹殺することも逃げることも、はたまた開き直ることもままならなくなったこの状況では、
最早桂自身が銀八とのセックスを愉しむようになる以外に救済はないように思えた。
その意識の変化を汲み取ったか否かは知るところではないが、桂の反応が単に全くの嫌悪だけではなくなり始めたことに銀八は気づき、
そしてここ数週間の間に、心持ち銀八の充足までのハードルが高くなった。
端的に言うと、より過激な行為を強いられるようになった、ということである。
そして今まさに、その過激な行為の残骸が狭いトイレの個室でうごめいているというわけだ。
ようやく桂が水道を使うことを思い立ったのは、授業を進める教師たちの声が遠くから折り重なって聞こえ始めた頃だった。
音で他の教員に気づかれないように控えめに蛇口を捻り、がしがしと汚れた髪を洗う。
たっぷり25分かけて、桂は精液を洗い落としたが、髪やカッターシャツの肩口や襟は風呂から上がったようにびしょ濡れだった。
苦肉の策で、持っていたヘアゴムで髪を天辺あたりでお団子にし、濡れていることを最低限目立たないようにした。
だが、矢張りかなり不自然ではある。
桂は絶望的な気分に陥りながら、銀八に強い負の感情を抱いた。
そして案の定、休憩時間で騒がしい教室にそっと入った桂に、好奇の目がちらほらと向けられた。
幸いなことに、また神楽たちが他のことでうるさく騒いでいたので、周囲の目もあまり向けられずに済んだ。
「おい。どうしたんだよその頭」
意外にも、そんな質問を投げかけてきたのは風紀副委員長の土方十四朗だった。
「関係ない。それ、俺にか」
「ああ、銀八が学級委員長が来たら仕事頼んどけって…って、何でそんなにびしょ濡れなんだよ。
お前の周りにだけ雨でも降ってやがったのか」
「…寝癖が、どうしても直らなくてな」
桂は大量の資料に目を通しながら、苦し紛れの嘘を吐いた。
手渡された仕事の殆どは、銀八が作った「国語準備室に来る口実」であるための仕様もない雑用ばかりだった。
「そんなことで授業休んでいいのかよ、委員長さんよぉ。女かてめぇ」
「猿でも高得点が取れる、がウリの坂田の現国、だぞ。出席点ぐらい、菓子折りで釣りが来るだろう」
「ふーん…って、何だこれ、こないだの小テストじゃねぇか…採点まで学級委員長にさせるのかよ?
この仕事量異常じゃねえか?」
「ああ、何なら代わってくれるか?まあ、お前ならもっと楽な仕事ばかり与えられるだろうがな、
日誌だけ提出してればいい、だとか」
桂は苛立ちながら銀八のお気に入りである土方にぶっきらぼうに言った。
土方はその物言いに気を悪くしたようで、フン、と鼻で嗤うと仲間の五月蠅い風紀委員のもとへ向かった。
いけすかない男だ。桂は土方のことを、常にそんな風に思って見ていた。
風紀委員の中では一番融通の利きそうな男ではあるが、変に気取ったところがある。
だが銀八にじゃれつかれているときは、無防備で飾らないただの高校生男子になり下がる。
結局餓鬼じゃないか、桂は項に垂れる水滴を感じながら妙な苛立ちを土方に向けた。
そしてその感情をぶつけるように、不真面目に作られまた不真面目に回答された漢字の小テストの採点を一気に終わらせた。
*
昼休み、食事の前に桂は予定より早く片付いた仕事を持って国語準備室へ向かった。
恐らく銀八は、放課後までに終わらせられる量を見込んで仕事を渡してきたのだろう。
昼までに桂を部屋に来させたい場合は、この半分の量が手渡される。
もはや仕事量が逢い引きの指定時間の目安となっているのだ。
朝のこともあり、桂は仕事を手渡して直ぐに部屋を出るつもりだった。桂は憤っていた。
少しくらいは意表を突いてやりたかった。
弱みを握られている以上仕方のないことではあるが、こんなにも屈辱を受けてもまだ堪えなければならないなぞ、
いっそ馬鹿げているとさえ思えてきたのである。
しかし、その思惑は準備室のドアの前で脆くも打ち砕かれた。
銀八の下には、既に他の来訪者があった。
それも、今一番口を聞きたくない土方であったのだ。
「…だーかーらー、朝トイレで煙草吸ってたんでしょ?俺そん時あのトイレでクソしてたから見てたんだって」
「それが何だよ、前から知ってることだろ」
「単に知ってるのと、現場見ちゃうのとは話が別なんですー。大人の事情ってやつよ、副委員長さん。
ま、今回は大目に見るからさ。反省文、原稿用紙1枚分ね」
桂は彼らの一連のやりとりに、薄い戸一枚を隔ててじっと耳をそば立てていた。
どうしてか、その場から凍り付いたように動けなかった。
耳に流れ込んでくる彼らの至極教員と生徒らしいやりとりが、毒水のように感ぜられた。
「だったら長谷川さんも呼び出せよ。贔屓してんじゃねえぞ」
「長谷川さんは二十歳過ぎてるもの。俺は贔屓なんてしませんよ、生徒のことは平等に愛してます」
物音から推測するに、土方はパイプ椅子に腰掛けたらしい。
そして彼は、意味ありげにたっぷり間を取ってから、
「嘘つけ」
と言った。
「…なーにそれ。俺が誰か贔屓してる?」
その銀八の声音は、桂と二人きりのときの其れに限りなく近かった。
それでもお気に入りの生徒である土方の前に、必死で理性が彼の真の感情をカバーしている、とでも喩えようか。
ますます桂は微動だにできなくなった。銀八と同じくして、土方の真意を探りたくなった。
「その逆だよ。人間なんだから、苦手な生徒の一人ぐらいいるだろって話」
「…何でそんなこと言うかなあ。てことは土方くん、目星は付いてるんだ?」
また、沈黙。
銀八の猫撫で声には、明らかに一生徒には晒せないような黒い何かが含まれていた。
それが苛立ちか、それとも面白がっているのかは桂には分からなかった。
「桂のこと、嫌いだろ」
自分の名を唐突に呼ばれ、桂の心の臟は激しく一度収縮した。警鐘が聞こえる。
ここを立ち去らないと。俺はここにいてはいけない。
それでも、どうしてだろうか。彼の脚は相も変わらず地に根を張っていた。
「……嫌い、じゃないよ。頭もいいし、仕事はちゃんとこなすし、品行方正だし。模範生じゃん。
…ただ、俺はああいうタイプ苦手なだけ」
「苦手、ねぇ」
土方は納得のいかない、と言った風に銀八の一見素直ともとれる言葉を反芻した。
沈黙。今度はもっと重い其れであった。
「嫌いなんだよ。あのうざい長髪」
沈黙を破ったのは銀八の囁くようなその言葉だった。
そこには、教師らしい響きは一切なく、きっと土方も吐露された大人の本音に息を呑んでいることだろう。
「似てるんだよね。昔別れた女に」
そこまで聴いて、桂の脚は今度は勝手に逃げ出していた。わけもわからずに逃げ出した。
先刻聞かされた銀八の自分に対する評価が、ぐるぐると頭を巡った。
頭では、わかっていた。今朝だって、憎まれていると確信したところだった。
銀八が自分のことを嫌っていたとしても、何ら疑問は湧かない。寧ろ筋が通るくらいだ。
なのに今、こんなにも動揺している。
正解を突きつけられて、足下が崩れ落ちるような気分になった。
矢張り自分は今まで騙されていたのだ。何度愛していると告げられても、其れは完全なる虚偽であった。
分かっていた筈なのに、優しい声と作った笑顔に、自覚もないうちにほだされていた。
自覚もないうちに、もしかしたら本当に愛されているのかもと、心のどこかで勘違いしていた。
嫌いだから、苦しめる。ことはもの凄くシンプルだったのだ。
自分はそれを深読みして、銀八の真情を探っていた。事実は見えているままだったのに。
桂の胸は今までにないほどきりきりと痛んだ。廊下を早歩きしながら、ざくざく早くなる鼓動に喉が塞がるのを感じた。
廊下の途中で神楽にすれ違いあいさつされたようだったが、対応する余裕もなくただ、前へ進んだ。
あ、長谷川さんは20歳超えてないですよ。たぶん
ほんと喫煙者には世知辛い世の中ですよ
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