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「ストップ、ストップじゃー!」
こてこての土佐弁が小綺麗なスタジオ内に響き渡り、それを合図に軽快なドラムと重厚なベースはぱたりと音を止めた。
「金時。曲の出だしを忘れたんか?」
サングラスの隙間から、あくまで優しい声音でプロデューサーの坂本辰馬が俺にマイク越しに問うた。
あろうことか、俺は自分で作曲した次のタイアップナンバーの入りをど忘れした。いや、違う。曲が演奏されていること自体に気付かなかった。
「……すいません」
「すいません!?今おんし、わしに謝りよったんか!?休憩じゃ!20分休憩じゃ!」
坂本の言葉で、スタッフや他のメンバーは訝しげに俺を見ながら休憩に入った。ドラムスの神楽は持参した重箱をいそいそと開き始めている。
坂本は尚もギターを抱えたまま微動だにしない俺の腕を掴み、スタジオの外へぐいぐいと引っ張っていった。
俺が謝ることがそんなに珍しいのか、坂本は血相を変えていた。
いそいそと真っ赤なトレンチ・コートのポケットからグッチの小銭入れを取り出し、廊下の自販機に120円を入れ、「いちご牛乳でええか?」と俺に尋ねた。
俺は頷き、差し出されたいちごオ・レを受け取った。
「何だよ、きもちわりぃな」
「気持ち悪いのはおんしじゃぁ。わしに謝るなんて、明日はきっと大雪じゃ。6月も半ばや言うのに!アッハッハ」
くそ面白くもない冗談に笑えないでいると、坂本はおほん、と咳払いをしてから自分のコーヒーをすすった。
「なんがあったん」
「……」
「小太郎くんと喧嘩でもしよったか」
「………」
坂本辰馬は、俺と恋人である桂との関係を知っている、今のところ唯一の男だ。
そもそも此の男との出会いはずっと以前に遡る。
当時他のメンバーとぱっとしないバンドを組んでいた俺は、とある小さなバー兼ライブハウスでバイトをしていた。
バンドはしかし、メンバー内の色恋沙汰が原因で比較的すぐに解散した。
俺以外は全員黒人風の大男や大女で、一人はそれなりにお色気のあるギターがいたが、まあ音楽性の違いもあって解散は必然の結果だった。
俺と同じ店(CLUB JOYといった)で当時DJを務めていたのがこの坂本で、何となく気が合って俺たちは仲良くなった。
坂本はその店を辞めた後ラジオのパーソナリティとして人気を博し、一躍時の人となったかと思えば人気絶頂のときにふと前線を退き、
今度はプロデュース業に回った。
奴がプロデュースしたテクノバンド「エクスタシー・チアーズ」通称エクチアがテクノブームの先駆けとなり、
そのボーカルのMUTSUは今やファッションリーダーとしても女性から絶大な人気を誇っている。
デトロイト出身の白人ラッパーではないが、俺と坂本はどちらかがビッグになったら一緒に音楽をやろう、と約束をしていた。
奴はそんなこと忘れているだろうと思っていたら、意外とそういうことに忠義を通す男だった。さすがは坂本龍馬の出身地、高知の男だ。
それだけではなく、普段は底なしのアホに見えるこの男、普通は気付くだろうということには気付かないくせに、
絶対に隠し通したいことに関しては異常なほど敏感によく気付く。
数ヶ月前に一度、桂も交えてバンドメンバーと坂本とで飲み会をした帰り、坂本は俺に「金時、おんし面食いじゃのぉ」と爆弾発言をした。
聞けば坂本も昔男と付き合ったことがあるらしく、それもあって俺は桂とのことはもっぱら坂本に相談していた。
「ついに事務所にバレたんか?」
「いや…」
小さな事務所なので、社長の寺田は俺たちのプライベートに関しても熟知しているが、流石にまだバレてはいない、はずである。
ただ、最近「妙なスキャンダルは起こすんじゃないよ」と口を酸っぱくされている。
妙な、のあたりに違和感を覚えるのは疑心暗鬼になりすぎているだけなのだろうか。
「…実は昨日さ」
俺はいちごオ・レを一口啜り、昨日のことの顛末を話した。
神楽がいつも酔うとそうするように、また俺の携帯を勝手にいじり、桂に酔い潰れながら電話をかけた。
電話を取り返そうと神楽ともみ合っていると、電話口から知らない男の声で、
「お前みたいなわけのわかんねぇバンド野郎なんかより、俺の方が桂を幸せにしている」とかそんな感じのことを言われ、そして電話が切れた。
「それは、浮気、ということなんかね」
「やっぱそう思う?」
「普通に考えたらそうやね」
その返答にだめ押しされたように、俺は思いっきり深い溜息を吐いた。
一晩中そのことばかりを考えていた。正直、桂が、よりにもよって男と、浮気するだなんて考えもしなかった。そいつは俺の自惚れだったのかもしれない。
桂が好きになった初めての人間は俺で、たぶんそれが俺の傲りの原点だったのだろう。
初めて好きになったからといって、そのまま永遠にその相手を好きなままでいるというわけではない。
ない、のに俺は何の根拠もなしに、桂は俺のことを好きなままでいてくれると変な確信を持っていた。
でもよくよく考えてみれば、俺は忙しさにかまけて以前よりも会いに行っていないし、それよりも桂からの連絡というのはほぼ皆無に等しかった。
会いに行ったり連絡したりするのは俺からばかりで、二人で過ごす時間は幸せに感じていたからさほど気にもしていなかったが、
もしかしたら桂は俺に対して不満を持っていて、でもそれを口に出せないからサインを送っていたのかもしれない。
だが、だからといって浮気するなんて。文句があるなら言えばいい、こそこそ他の奴と会ったりせずに。
紛れもなくこれは裏切りである。好きだった分、その苦しみと哀しみはそこはかとなく大きい。
今まで、女と付き合ったときは俺が浮気して泣かれてキレられて、俺はお前もすればいいじゃん、気にしねぇよお互い様だろ、
とか何とか言ってぶん殴られて別れたりとかそんなことばかり繰り返していたのに、今は全く逆転だ。
最悪だ。怒りと哀しみと後悔で、演奏はおろか生活すらままならない。何て悲惨。
「ほんで、どうする気なんじゃ」
「わっかんねー。電話とかメールとか、昨日からずっとあるけど、どうすりゃいいのかわかんなくて全部無視してる」
「うーん。難しいのぉ」
俺は文字通り頭を抱えた。裏切りは手ひどく俺の魂ごと削っていく。
こんな事態は勿論初めてで、一体どうするべきかどうしたいのか今の混濁した頭ではわからない。
別れる、か?
確かに、これからのことを考えるとお互いにそうした方がいいのかもしれない。
坂本と組めば、その意外性と奴の人気を借りてこの先まだまだ躍進の機があるだろう。
ロックスターなるものへの階段が目の前に広がる今、男と付き合っているというスキャンダルは障害以外の何物でもない。
エルトン・ジョンですらすんなりとはいかなかったことを、どうして俺がすんなりと解決できるだろう。
桂も、俺よりも好きな相手ができたのなら、そっちと共に社会の中のマイノリティーとして生きる方がずっと幸せで、好奇の目に晒される機会だってぐっと少なくなる。
それでもまだ、俺は桂が好きで。
冷静に考えたところで、この先のビジョンを思い描いたところで、お互いのためだなんだときれい事並べたところで、まだ、好きなままで。
だけど許せない、という感情もある。本当に、許したくない。
いくら好きだからってそこまで寛大な人間じゃない。寛大さで言えば昔の方がそうだった。相手が何しようと構わなかったんだから。
「あれかのぉ、相手のためと思ってガマンしたことが、裏目にでも出たんかのぉ」
「それってセックスのことですか坂本先生」
「うん、まあそうやね」
俺と桂は半年付き合って、まだセックスをしていない。
俺が臆病というのと、桂がそんなこと望んでいないだろうというのとが相俟って、手コキとフェラと、よくて素股ぐらいしか経験していない。
それさえも両手で数えてお釣りが出る程度の回数だった。その代わりに、マスをかく回数が格段に増えたが。
「金時はよぉ頑張ったよ。浮気もせんと」
「やめてくんない、その慰め方やめてくんない。惨めすぎる、死にたくなる」
インディーズデビューなんてしようもんなら、色目を使ってくる女なんて掃いて捨てるほどいた。
ベースのツッコミ眼鏡新八でさえ、何度かそういうチャンスがあったぐらいだ。
どうしてだか未だに童貞を捨てられていないらしいが。そういうツキの下に生まれたのだとしか思えない。
そんな状況下で、本命がいるからと言ってはぐっと誘惑に耐えたのは、桂を絶対に傷つけたくなかったからだ。
裏切りたくなかった。俺に安らぎを与えてくれるのは桂だけだから。
なのに、まさか桂に裏切られ、傷つけられることになるとは。死にたい。ホントにもうやだ。
「今日はぱーっと飲みに行くか?そんなんじゃええ音も出んき」
「記憶全部なくすまで飲みたい気分です先生」
ぼやきながら俺と坂本はふらふらとスタジオに戻ろうと重い腰を上げた。今なら自殺直前の芥川ぐらいぶっ飛んだ歌詞が書けそうだ。
「銀時」
聞き慣れた凛とした声。俺は思わず仰け反った。
スタジオで俺を待っていたのは、他でもない、桂その人だった。
坂本の知名度=中井ヤスタカ≦坂本<Ne-Yo
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