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「銀時。急に押しかけてすまない」
桂は俺の姿を認めると、少し緊張したような面持ちで此方へ歩を進めた。
事務所の人間と面識があるので、すんなりスタジオに通されたのだろう。この時ばかりはスタッフを恨んだ。
「悪いと思ったんだが、どうしても話がしたくて」
桂は常よりも光を多く宿した綺麗な両眼をきっと俺に向けて、常よりも意志の多く篭もった声で俺に毅然とそう云った。
話、と聞いて真っ先に浮かんだのは、別れ話だった。昨日の一件で露呈した不貞を、言い訳するとかでもなくそれを機に関係の終わりを告げに来たのではないか、と
俺は一瞬のうちにそう予想した。
そして、そう思うと急にとんでもなく怖くなった。
「…悪いけど、今からレコーディングだから」
俺は精一杯声を震わせないよう努め、聞き取れるか聞き取れないか程度の小さな声音でそれだけを告げ、桂の目を見ないようにスタジオの奥へと早足で向かった。
「待ってくれ、少しでいい。どうしても話したいんだ」
桂は通り過ぎようとする俺の腕をぐっと掴んだ。細い腕からは考えもつかない強い力。しかし、俺はそれを上回る力で、桂の腕を振り払った。
「…今お前の顔見たくない。帰って」
周りは何事かと思っているだろうが、それを噂することもできず気まずそうにおのおのの雑務をこなしている。
その雰囲気にも心をかき乱される。身体の内側から引きはがされそうな心持ちがする。
俺は桂を振り返って反応を見ることすらできなかった。暫くすると、背後の存在は「わかった」と言い、そのままスタジオを去っていった。
「あ、桂さんっ…」
新八が見かねて桂を引き留めようと、変に縋るような声を出す。しかし第三者の制止も虚しく、扉は小さな音を立てて閉じられた。
「金時…」
事情を知る坂本が心配そうに声を掛けるが、それすらも疎ましい。状況把握のできないスタッフたちも、ちらちらと気遣わしげな目線を送ってくる。
耐えきれずに、「わりぃ、ちょっと顔洗ってくる」と捨て置き、俺はその場を後にした。
もう、いろいろぐちゃぐちゃで、訳が分からなかった。
男子トイレは誰もいなかった。
それをいいことに頭から冷水を浴び、顔をごしごしとこすりまくった。
昨夜からの悪夢のような出来事を、水道で洗い流しでもできるかのように。
どうしてこんなことになったんだ。
悔しさと悲しさが溢れてくる合間から、先ほど思いっきり振り払った桂の手を思い出す。
桂はどう感じたんだろう。わかった、と言った声は、ひどく寂しそうだった。
それは引導を渡そうとしている相手に向けられる類のものではなく、どうにかして誤解を解きたいと思っていた人間に対するものだったように思える。
水をかぶっている所為か、急に冷静さが押し戻ってきた。それまでは浮気だとほぼ確信していたのに、急に果たして本当にそうだったのだろうか、
と疑念が首をもたげはじめた。
だけど今となってはもう手遅れ。もう桂から弁解してはこないだろう。
彼奴はプライドが実はそこそこ高いし、何より、人と人との関係に臆病だ。
不器用で、人にどう接していいかいまいちわかっていなくって、上手く関係を築きたいがために自分の感情を押し殺しがちで、
それが裏目になって相手から壁を感じられたりして。兎に角不器用だ。不器用な奴なんだ。
そんな不器用な奴が浮気なんてできるんだろうか。
それもその片鱗も感じさせずに、俺に黙ってうまいこと他の男とつきあえるんだろうか。
考えれば考えるほどに、ありえないことのように思えてきた。
もう少し早く、その可能性に思い当たっていればこんなことにはならなかったのだろうか?
でも、じゃあ昨日の男は桂の何だって言うんだ。あの台詞の説明がつかない。
俺の方が桂を幸せにしている、だっけ、いや、…何て言っていた?
悶々としていたところに、バァンと破壊音と共に扉が開かれた。
ぎくっとして顔を上げると、そこにはドラムスの神楽が何とも言えない表情で俺を睨んでいた。
「最ッ低アルなお前。やっぱお前はただのヤリチンネ」
「…あぁ?」
神楽は俺を思いきり見下しながら、侮蔑の念に表情も言葉も満杯にしながらそう言い放った。
「話がしたいって来た相手を追い返すか普通。何があったか知らないけど、大方予想はつくアル」
「何の話だよ」
神楽は戸に片足を乗せながら腕組みをして俺をぎろりと睨み付ける。
まだ15歳ぐらいのこの天才ドラマーから、よもやヤリチン扱いを受けるとは思わず、説教モードに入られるとは思ってもみなかった。
というか、さっきのアレで何で俺がヤリチンなんだ。
別に女が押しかけてきたわけでもない、「友人」の桂が来ただけなのに。
「寂しい思いさせてんのはテメーだロ。自分が元凶の癖に相手のことは棚上げアルか。ろくすっぽ話も聞かずに顔見たくないって、随分自分勝手だなオイ」
「…!おま、何…」
「気付いてなかったとでも思ってンのかこの猿。浅はかすぎるネ、だからお前はヤリチンなんだヨ」
そんな馬鹿な。俺は頭が真っ白になった。
俺と桂のことは勿論メンバーには極秘にしていた。
あくまで「親友」として、桂を扱ってきていたし、そんな素振りも見せたことはなかった、つもりだ。
なのに、こうもあっさりと、しかも年端もいかない小娘に見破られていたとは。正直、ひどく焦った。
「反省したらとっとと謝ってこいヨ。ワタシ、ヅラと仲直りするまで何も叩かないからナ」
そう捨て置くと、神楽は去っていった。流水音だけが虚しく便所に響き渡る。
「どーしろってんだよ…」
俺は深い溜息と共に、もう一度頭を水につけた。
神楽にヤリチンって言わせたかった
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