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6月25日。もうあと数分で、26日になる。なってしまう。
バイト先のラーメン屋「北斗心軒」の黒ずんだ床のモップがけが終わり、今日の業務は全て終了した。
俺はふぅ、とひとつ息を吐く。

あれから1週間と少し。結局銀時からは連絡が途絶えたままだった。
高杉の口走った妙な台詞を、銀時が誤解しているということぐらいは幾ら鈍い鈍いと言われる俺でもわかる。
だからあまり気乗りはせずともスタジオにまで押しかけた。
振り払われた力の強さに、俺は怯えてしまった。

お前の顔見たくない。

その言葉をここ一週間と少し、何度も反芻しては苦くて堪らない味を口の中にしたため、悲しさと不安と諦念でこめかみのあたりがきんとして、
胃の中のものが迫り上がってくるのを感じながら過ごしている。
何をしていてもその言葉と銀時の態度が俺に取り憑いて離れない。
ただ、バイトで忙しさに身を投じているときだけは何とか忘れることができた。

終わり、なんだろうな。

そんなことをどうしても考える。
銀時とやり直せるならどんなことでもする、汚い黴の生えた床や便器でさえ舐めろと言われれば舐める、それで銀時と元に戻れるのなら。
女々しい祈りはこっそり捧げるのに、もう一度連絡することがどうしてもできなかった。
無視されるのが怖いし、もしも連絡がついてもその時が関係の終わりかもしれなくて、携帯を持つ度に吐き気がして、駄目だった。
それにやっぱり、俺なんかいなくたって、他に女の人がいるんだろうな、とも思った。
でも浮気も何も、もう関係なくなってしまった。どうせ終わってしまう。このままだと。
高杉を恨もうにもあれからぱったり姿を見ることもない。彼女の家にでも入り浸っているのだろうか。
あいつだけ上手くいっているなんて何て非道い話。俺を蹴落として自分は彼女と幸せに過ごしているなんて。


「お疲れ様でし…___」


モップを元の場所に直し、店主の幾松さんに挨拶をしようと厨房の奥を覗くと、彼女はいつになく真っ青な顔で壁にもたれかかっていた。


「幾松さん?大丈夫ですか」

「…何でもないよ。終わったんなら早く帰んな」


何でもないはずがない、と俺は彼女に歩み寄り、彼女が避けるより素早く額に手を当てた。


「熱がある」

「…風邪気味なだけだよ。一晩寝れば平気さ」


そうは言っても額の温度はかなりの高さで、一晩で直る程度のものとは到底思えなかった。
明日は金曜で、終末を前にした仕事帰りの男女が夕刻ごろからよく店に来る掻き入れの日だ。
この女店主は自分の体調など顧みず、休もうと思うことさえ一瞬もせず、どんなに熱が出ても倒れるまで店を開け続けるだろう。
頑固な上司のやりそうなことは、嫌というほどよく分かる。


「幾松さん、俺明日入りますよ」

「は?あんた、明日は月初めから休み取ってただろう」

「…いいんです。明日はその、人と会うはずだったんですけど、会えそうもなくて。授業も昼はないし」


だから幾松さんは休んでください、俺が昼からいますから、そう言って微笑んで、なくなった予定の原因を無理に頭から退けた。


「…わかったよ」


店主は一瞬断ろうという素振りを見せたものの、体調は彼女の意志に反してもっとずっと悪いらしく、青い顔のまま頷いた。
その時にカチリと針が合わさって、俺は二十歳になった。




























「あら、今日は桂くん一人なの?」

毎週金曜の夜にやってくる常連客の女性が、いつもの、と頼んでから店内を見回して俺にそう問うた。


「ええ、幾松さん今日は体調が悪くて」

「珍しいこともあるわねぇ。大丈夫かしら」


女はそれ以上は何も言わずに、無駄に装飾を施した携帯を開いた。
その直後に中年のサラリーマン二人連れが入店し、とんこつ二つ、と不躾に注文をしたので、はいただいま、と叫んで新たに別の大鍋に麺を二玉入れた。


「幾松にも、こういうときに看病してくれる男がいればいいんだけど。桂くん、彼女いないならどう?」


女の目の前に醤油ラーメンネギとチャーシュー多めを置いたとき、そんなことを言われた。


「俺なんか、相手にされませんよ」


笑ってそう答えて、自分の答えに少し嘲笑した。
実際、まっとうにバイト先の未亡人店主に叶わない恋でもできた方がいくらかマシなんだろう。
同性のロック歌手の連絡を待ちぼうけするぐらいなら。眠る前に思い出して哀しくなるぐらいなら。


「恋に痛みはつきもの、ってやつよ。頑張んなさい」


女の言葉に、俺は苦笑いした。
ああそうだ、俺は知らなかったんだ。だけど知ったんだ。
人を好きになるってことは、こんなにも痛くて辛くて哀しくて、でも逃れられなくてもどかしくて。
それでも、どうしてもやめられない。好きだって、会いたいって、言葉を覚えた子供みたいに、何度だって繰り返す。
叶わなくても、神様に祈りを捧げて眠るクリスチャンみたいに、何度でも。
何度でも思い知る、自分の感情。感情は痛みを伴う。古い床のように、ぎしぎし軋む。
銀時。会いたい。今日会いたい。














忙しさのピークを過ぎたのは9時前だった。
客も帰り、後は幾分か暇になるだろうから仕込みでもしようかと思っていたとき、二階から寝間着姿の店主が少し血色を取り戻した顔で降りてきた。


「今日はもう店じまいだよ」

「え?」

「もう客も来ないだろうし。後はやっとくから、あんたは帰んな」

「でも、幾松さん熱が」

「馬鹿、薬飲んで日がな寝てたら治るに決まってんでしょ。
それに、予定外にあんたがバイト入ったから人件費がかさんじゃったのよ。だからもう店じまい」


それからこれ、と幾松さんは一升瓶をカウンターに置いた。眼を白黒させていると、一睨みしてから「誕生日プレゼント」と言った。


「?何で知って」

「履歴書にでかでかと書いてあったよ」

「ああ、覚えててくれたんですか」

「勘違いしないで、暇だったからたまたま見返しただけ」


はあ、とひとつ溜息を吐いてから、幾松さんはちらと時計を見て続けた。


「あと3時間あれば十分だろ」

「何がですか?」

「誕生日ぐらい、会いたい人間に会いたいってわがまま言うもんだよ」


少し、動揺した。
彼女はふっと微笑んで、「それ持ってとっとと帰りな」と、全部見透かしたような綺麗な瞳でそう言った。
ああ、やっぱりこの人は、俺なんか相手にしてくれないんだろうな、と漠然と思ってから、お礼を言った。
未亡人に恋する機会をあっさりと逃したのに、俺はどこか穏やかで満たされた気分で店を出た。
一升瓶の重さに辟易しながら、不器用なお辞儀をして引き戸を閉める。


「お疲れさま」


途端、耳に聞き覚えのある声が、入り込んできた。
焦がれ続けた相手のものだと認識するその前に、視界に映る夜に映える銀髪。
月、とか星みたいだ、と思った。








幾松さんがツンデレになっちゃった…意外といいかもしれない
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