夜を冷たい生き物のように感じはじめたのは何時の頃だったか、戦というのは
何分にまともな感覚をぐらぐらに歪ませるものであるので明確な時期が全く判ら
ない。それを自覚したところで果たして何にも成らない。只、ただの興味本位。
眠れぬ夜の他愛ない戯れ言であるのだ。
夜は多分に死を纏っているからそんな風に感ずるのか俺は。死は夜に似ている。
夜、というよりも闇に。否、死は闇そのものであるかもしれぬ。
そんな体で、雑魚寝する同志たちの盛大な鼾を背景に、桂はいつまで経っても
明けない空を薄い蒲団の中から眺めていた。実際は蒲団とも呼べないようなぼろ
きれを申し訳程度に纏っているだけであったのだが、ないとあるとでは寝心地が
全く違う。にもかかわらず今、今夜桂の疲労困憊して然るべきの瞳はきんと冴え、
夜を観ている。
塒である寺の境内を控えめに照らす月明かりを、肌に吸い取っている。そして今
この瞬間この室内でこうしているのは絶対に自分一人だけだと、どうしてだか桂
は確信していた。
蒸し暑さに敵わずに無防備に開け放たれた戸の外からは、蛙どもの合唱が聞こ
えてくる。そういえば夏は、萩の田という田の蛙を塾の皆で狩り尽くした覚えが
ある。覚えがある、というにはあんまり近しい時代なのだがそう云わざるを得な
い。たとい蛙の鳴く声は同じでも、自分たちは全く違ってしまっている。
見上げる天井には、鼾、だけじゃないなにか、ひやりとした、極限のいのちの唸
り、ゆくえ、悲鳴なんかが這い回っているように桂には見えた。
明日死ぬかも。
彼らの鼾にはそんな言霊が宿っているような気さえするのは、思いこみすぎだろ
うか。
確かに桂には充分過ぎるほどの想像力が在る。とかく戦争には邪魔な能力だ。
何度目か知れない、苛立ちを孕んだ寝返りを打つ。眠れない自分に腹が立つ。
明日もたいへんに暴れなくてはならないのに、と少し焦り始めた、丁度その時に
遠くの枕元で襖がすらりと開いた。
漏れ入る光もなし。だが、開いたその隙間からは威圧的且つ冷淡ななにかが感
ぜられる。桂は自分の肩がぴくりと反射するのを認めた。
寝入っている同志たちの頭を踏まぬよう注意しながら、みしりみしりと、薄い床
板を静かに踏みしめて、足音は此方に確かに近づいてくる。
桂は体勢を変えない儘で、数を数えた。意味もなく動悸がした。
堅い板の感触が妙にくっきりと伝わってくるのが疎ましい。
果たして足音は、桂の背後でぴたりと止んだ。そうして桂は、そうなるであろう
ことをとっくに知っていた。
「ヅラ」「起きてる?」
掠れた小さな幼馴染みの声。あまりにも聞き慣れた其の声からはしかし、其の若
い欲に焦っているだとか急いているだとかいう感情は何も汲み取れない。
「ヅラじゃない桂だ。起きてない」
「起きてんじゃん」
判っておるくせに。俺が起きているということ。そう憎まれ口を叩くのもどこか
変な感じで、桂は言葉を殺した。すると銀時は踵を返し、もと来た道をもとの速
度でのっそり帰っていく。そして、襖の開く音と閉まる音。
桂はこっそりと溜息を吐いた。判っておるのだ、あいつは、何もかも。
そしてこの俺も。
一度横たえた疲れた躯を起き上げることはいやに億劫なはずだったが、苦もなく
桂は体温を存分に吸った蒲団から這い出て、長く重い髪をひとつに結い結い銀時
と同じぐらいの速度と静けさでもって鼾と蛙の声がわんわんこだまする寝間を風
のように出ていった。
むさ苦しい戦士たちがひしめき合う境内の中よりは、外の方が流石に幾分涼しか
った。
土の冷え冷えした匂いと、当然ながら先程よりはずっと明確に聞こえる蛙の大合
唱。
草履の隙間から砂や小石が入ってきて、歩く度ちくちく痛んだ。
銀時の白髪頭は夜でもよく目立つ。その白銀の塊はいま、桂の五歩前で闇の中
に浮いていた。まるで自分を誘う提灯のようだ、と桂はぼんやり思った。
暫く歩くと、不意に男たちのがさつな笑い声が闇に響いた。黄色い薄灯りも視界
にちらつき始める。銀時が歩を止めたので、桂も五歩分の距離そのままに思わず
立ち止まった。
「…まだ起きてやがったのか」
心底忌々しそうに銀時がぽそりと呟いた。毎度のことではあるが、陣の幹部の年
輩の者たちは時折出所の知れない酒や食事を夜中に楽しんでいる。深夜にしては
大きすぎるその物音は、宴会を包み隠す努力をしていないことを物語っていた。
自分たちが使おうとしていた部屋を取られた苛立ちもあってか、銀時は悪態を先
程より少し大きな声で吐いた。
「随分と仲間思いな大将たちだな、死にかけの奴がいるってのに酒飲んで酔っぱ
らってるとは」
「……仕方あるまいよ、それが特権というものだ」
薄明かりが銀時の左半身を照らしているが、表情はうまく見えない儘桂はそう宥
めた。
独特の淀んだ空気が、光の源の方から流れ出てふたりの青年の間を渦巻いている
。銀時はちっ、と舌打ちして、他の部屋探すぞ、と踵を返した。
ざくざくと前進する足音に、桂は黙って付いていくしかなかった。感情よりなに
より、銀時に付いていくことが優先されてしまう。そのことに、桂は気づけない
ままだった。
一通りぐるりと廻ったが、結局使えそうな部屋はどこにもなかった。誰かが寝こ
けていたり、あるいは自分たちの目的であるセックスを先に行っていたり。
「んだよ、みんな早く寝ろっつの」
ずっと無言だった銀時がやっと溜息混じりに呟く。「お互い様だろ」と桂は返し
た。
それでも、宛がない割には銀時はずんずん前へ進んでいく。寧ろ先刻よりも速度
は速いぐらいだ。銀時の大きくて広い背を、若さの衝動に駆られた欲求が押して
いるようだった。そんな銀時を桂は逡巡を交えながら追う。
「今夜は戻ろう」
そう投げかけてはみたが、銀時は返事すらせずにもう一度同じ道筋を行く。距離
はぐんぐん開いていき、ひとりで何をするというんだ、と桂は溜息を吐きながら
も矢張り、その後を追った。
疲労した躯に鞭打った甲斐も、もう一回りばつの悪い思いをしながら歩いた甲
斐もなく、どこにもお誂え向きの空間は存在しなかった。予想通りの事態に、桂
も流石に業を煮やす。
「銀時、戻ろう」
銀時が諦めたように溜息を吐いて立ち止まったのを機に、桂は今度こそそう提案
した。
「こうなりゃあっこしかねぇな、かなりヤだけど」
長い溜息をもう一度吐いて銀時が言ったのは、桂の提案を無視した提案であった
。あーあ、ほんっとうざいあいつら、ぶつくさ呟きながら銀時は桂が見えていな
いかのようにまたも前進する。
「おい銀時…」
一体何処へ向かおうというのか、しかし銀時の足取りは確固とした目的を持って
いる。
縮まった距離は再び離れていく。桂は躊躇した。放っておくとこのまま夜明けが
来ないような、そんな心地。幾ら何でも此の夜は長すぎる。固い土の上で桂は足
踏みをして、先を行く銀時の白い着流しを見つめた。
すると意外にも銀時はちら、と桂を振り返って、視線は目的地の方向へ向けなが
ら左手の指先をくいくい動かした。それはこの距離とこの薄暗さでするにはあま
りに微細な意志の表明だったが、明らかに桂の右手を誘っていた。そしてそれは
暗闇に慣れた桂の黒目がちの瞳に妙にくっきりと入り込み、気づけば右足は彼の
左手の方へ一歩、踏み出されていた。
何で手など繋がねばならんのだ。幼子でもあるまいし。
そう思っても言葉にできないのは、相変わらず鳴きやまない蛙が五月蠅すぎるか
らであろうか。触れた銀時の左手は少しだけ湿っていて、あたたかい。握るでも
なく、殆ど重ねられただけのお互いの掌からじんわり体温が融和していく。
(…心地よい)
それはそれは、純粋な感想であった。相変わらず歩む速度の速いこと速いこと。
何だか逃げているみたいだ。桂は銀時の焦燥に駆り立てられながら早足でそんな
ことを思った。
銀時がようやく歩調を緩め、やがて止まった。それに従って繋いだ手も離れた。
しかし銀時がようやく立ち止まったその場所は、庭に打ち捨てられたようにぽつ
んと立っている粗末な厠だった。厠といっても用を足すための穴と、申し訳程度
の仕切があるだけの簡易なものであるので、其処から放たれる異臭というのは筆
舌に尽くしがたい代物であった。それ故、用がないときに近寄るものなど皆無で
ある。現に、小屋の周りには不快な羽音を立てて旋回する蠅がうようよしている。
「いやいや、ないだろここは」
桂は打ちひしがれたようにそう呟いた。こんな不衛生極まりないところで、こと
に及ぼうとは正気の沙汰ではない。
「ここがヤならもう外しかねーぞ」
銀時はしれっとそう返した。彼にはこの無数に飛び交う蠅が見えていないとでも
いうのだろうか?
「だから戻ろうと…」
「それこそないだろ」
「貴様には自重という選択肢はないのか」
「ねーな、お生憎」
あまりにも淡々と答えを出して仕舞う銀時に、桂は半ば抑えつけられるように押
し黙った。交わす言葉の途切れた空間にはやけに耳につく蠅や蚊の音。異臭。感
覚器官は刺激されているのに、二人の脳は上手い言葉を探し出すことができない
ようだった。
「…悪ぃけど」
暫くして、ようやく銀時が消え入りそうな声音で呟いた。桂は視線を、暗闇に紛
れて殆ど見えない厠から隣に立つ銀時に向けた。
「自重とか無理だわ」
「毎日ヤっても足りねーんだ」
「…ヅラに、触りてぇ」
銀時は続けてそう言うと、一言ごめん、と付け加えた。桂は何故か、そのことに
ついて謝る銀時を見ていられなくなって、実際に顔を背けてしまった。
違う、別に、俺は。さっきまで死んでいた脳が急に蘇生して、言い訳じみた感情
がぐるぐると言葉を与えられぬ儘巡る。虫の羽音が一段大きく聞こえた。
「謝ることでは ……ないが」
「ないが?」
「…本当に俺なんぞで事足りてるのか」
「うん」
「……そうか」
暫時、また先程と同じような空間が広がる。桂の頭は銀時の淡泊な答えを敢えて
吟味せず避けていた。すると、銀時が桂の左手を軽い力で引いた。沈黙を破るき
っかけはいつだって銀時だ。
本気で厠に誘うつもりらしい。桂の中で明確な拒絶と、なすがままにされようと
する怠惰とがせめぎ合って、それでもその緩やかな温度に勝てそうにはない。
くさむらから覗くふたつの足首は、やがては其の地を離れた。
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